多くの人には本音と建前がある。


本音が本心本当の言葉なら
建前は本音を隠すような言葉








それで、時々人には
建前から本音が漏れ出す
ようなことが起こり
自他の心を揺さぶることがある。


普段の建前が美しいほどに
漏れ出した本音のリアルさは際立つ。


そんな時に社会はその人に対して
嘘つきのレッテルを貼ることがある。









確かに明確な目的をもって
嘘をついている場合も
あるのかもしれない。



だけど、
最近もうひとつ思うことは
人には本音と建前のほかに
信念のようなものもあるんだってこと。



それで、
「信念を貫く」って言葉があるくらい
信念というものは実は案外脆く
本人の強い意志でもって
形を保っている側面があるように思う。










私たちはロボットではないので
自分自身についてでさえ
一貫性を保つことは難しい。


理性的な建前信念の脇から
感情的・本能的な本音
漏れ出してしまうことがあるのも
仕方のないことなのかもしれない。


それは、本当に
「嘘つき」なのだろうか?










例えば、自分自身を振り返ってみる。


自分の中にある
ざっくりとした信念のひとつに
【差別をしない】というものがある。


「差別についてどう思うか?」
と聞かれれば
「差別はよくないと思います」
と迷わず答えるくらいに
建前にも矛盾はない。


私という人間は
信念として差別はしないと決めているし
建前としても差別を良しとしていない。


ただ、リアルな本音を覗いてみると
日々の暮らしの中で
私はたくさんの差別を
無意識的にしているように思う。


無意識に差別してしまうからこそ
信念として【差別をしない】と
しているんだろうと自己分析できる。













信念として【差別をしない】としている人が
人間的な未熟さゆえに差別をしてしまったら
その人はその瞬間に
嘘つきということになるのだろうか?











コツコツと積み上げて来た信念が
一時、表に現れてしまった本音と
矛盾の関係になった場合、
そのことについてジャッジを下す権限が
私たちにあるのだろうか?



本音は時に自他をギョッとさせる。



本音は確かに紛れもなく
その人の本心であり本当の気持ちだ。



だから、ピュアで力強い。



ギョッとした時、
人は自身を納得させるために
「この人は普段嘘をついていたんだ」
「今言ったことが真実なんだ」と
手っ取り早く決着をつけたく
なるのかもしれない。











私にも何度も経験がある。


自分の口から漏れた本音に
心底ガッカリしたり
相手の口から漏れた本音に
嫌悪感を抱いたり。


そんな過去に今言いたいことは、
ジャッジする必要はないよ
という一言。



自他の中にある矛盾を
ジャッジする必要も権限もない。



その人の信念に素直に耳を傾け
ふいに顔を出す本音は
赤ちゃんのように
扱ってあげればいいのでは
ないだろうか?



未熟さをそのまま受け入れる。


受け入れられないときは
受け流してもいい。











自他の中にある矛盾に
もう傷付かなくていいんだよ
自分自身にも
今これを読んでいるあなたにも
伝えたい。



未熟な赤ちゃんの部分と
成熟した大人の部分が
まざりあってひとりの人間が
できているのだと思う。



それはとても自然な在り方だと
強く感じる。