京都府宮津市。通称“海の京都”と呼ばれるエリアにあり、日本三景・天橋立でもお馴染みの場所。すぐ近くには漁港もあり、すぐ近くには水産加工会社もあり、出荷作業をされてる様子でした。まさしく海のまち的風景。

 

で、あまりなじみのない場所を訪れる際、まずはその土地のお城や城跡を訪ね、そこからその町の歴史をたどるのが常で、ここ宮津にもお城はあるのか?と。調べたら、ありました!

 

 

宮津湾岸にある武田病院。京都市内にもいくつかある病院、武田病院グループの一つ。

 

その病院の敷地の脇にある石碑と案内板。どうやら、ここが宮津城跡。

 

天正6年(1578年)、織田信長の命により、細川藤孝と明智光秀が侵攻し、もともとこの地の国主であった一色氏を滅亡。その功績により細川藤孝には丹後国、明智光秀には丹波国が与えられ、天正8年(1580年)細川藤孝(のちの幽斎)により宮津城を築城。
 
細川藤孝といえば、かつて戦国武将・明智光秀を描いたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で光秀の盟友として登場。本能寺の変の後、織田信長弔い合戦・山崎の戦いにおいて、光秀の援軍要請を静観し、豊臣秀吉の勝利に味方したことでも知られる人物。それを機に出家し、細川幽斎と名を改め、家督を息子忠興に譲り、宮津城城主も忠興が継ぐことに。

 

 
その後の慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで、徳川軍に味方した細川家は忠興出陣中、西軍から攻撃を受け、幽斎自ら城を焼き払い隠居城の田辺城に籠城。後に細川家は豊前国(現福岡県)に国を移しました。
 
江戸時代に入ると、京極高知が丹後一帯の領主となり、宮津城を大規模改修し、現存していれば日本の海城を代表するほどであったとか。当時の宮津は港湾も整備され、北前船の寄港地として政治経済の中心として繁栄。さらには、徳川幕府の譜代大名により城主が変わり明治維新を迎え城は廃れ、城郭そのものは土の中に埋もれ、姿を消したとか。
 
この巨石は本丸入口にあったくろがね門の袖石垣の一つで、今もこの地下には宮津城を偲ばせる遺構が現存。さらにこの近くを流れる大手川を上ると、宮津小学校の校門として宮津城太鼓門が活用され、当時の様子が偲ばれます。
 
 
名称:宮津城跡
場所:京都府宮津市鶴賀