平安京以降、京の町は条坊制度により区画がなされ、俗に言う碁盤の目状に都市整備されていることは広く知られています。通り名の唄など、順番に並んだ通り名を覚えていれば、ある程度位置関係が把握できるなど、わかりやすくもあり。
そんな碁盤の目の中にも例外の通りがあります。『路地(ろーじ)』や『辻子(図子)』と呼ばれる細い道。
そもそも平安京の条坊制度の区画では正方形が基本。
それが商業の発展や武家屋敷、寺院の移転に伴い新たな通りが誕生。
それが路地(ろーじ)や辻子(図子)と言われていますが、ざっくりとした認識として路地は袋小路、辻子は通り抜け可、
ということになっていますが、そのとらえ方は様々。
今回は後者・辻子にあたる道。
現在では衣棚通になってますが、かつて著名な茶人の屋敷があったことから『了頓図子(りょうとんずし)』とも呼ばれています。
かなり細い通りで、車1台ギリギリ通れるくらいの幅。この町内の方はここから車の出し入れされてるみたいですね(汗)
そして、途中こんな駒札と石柱が。
かつて、この界隈は桃山期の著名な茶人、廣野了頓の屋敷があった場所。
廣野家は足利家の従臣であり、義晴、義輝の時代にこの地を領有。その末裔である廣野了頓は、ここに茶亭を構え、
茶道を広めました。
豊臣秀吉や徳川家康が入洛時に、了頓邸を訪れるような関係だったことから、明治に及ぶまで、了頓家は繁栄。
面白いエピソードとして、了頓の遺志により、夜間以外は町人たちに屋敷内を自由に通行させたという逸話が残っており、その頃から辻子(図子)の役割を果たしていました。
今ではどちらかというと『衣棚通』として知る人の方が圧倒的に多いですが、町名にも残る歴史ある細い道。