てんげる治療院 山﨑ゆか裡です。

 

今朝03:20に牡羊座で新月を迎えました。

 


 

牡牛座は I am がキーワード。

私という存在がここにある。


私という意識が芽生える最初の月。


意識を乗せている身体は

 いつかまた自然へとお返しする身です。

 

これからの医療を考える上で、

今後どうしても外せないのが「死生観」です。

 

いつか必ず死を迎える私たち、

生きているからこそ医療が必要なのですが、

 

医療をもってして

完全完璧にすることは土台無理な話。

 

けれども今までは、

生活から死を切り離し、

死を遠ざけるための医療、

という側面があったように思います。

 

私たちは物質的な身体の存在にとどまらず、

body-mind-spirit 全レイヤーの存在です。

 

物質的な身体がいずれ自然に還ったとしても

魂存在は永遠です。

 

死を内包しつつ、どう生きるか。

I am です。

 

 

 

昨日、こんな記事を見ました。

 

 

結婚記念に訪れたアラスカの川で

愛犬が凍った川に落ちてしまった。

 

ためらうことなく妻のアマンダさんが川へ。

一度水面に顔を出したアマンダさんに、

夫のブライアンさんは「もう行くな!」と。


再び潜ったアマンダさんは2度と上がってくることはなかった。

 

3ヶ月後、

その川から犬のグルートを抱いたアマンダさんの遺体が見つかった、

というニュース記事です。

 

犬を抱くことができて良かった。

まず一番に思ったことです。

 

私も凍った川に飛び込めるだろうか。

その次に思ったこと。

それはその時になってみないとわかりません。

 

そして、感銘を受けたのはこれでした。

(記事抜粋)

3月初めには、遺体が見つからないままお別れの会が開かれた。ロジャースさん夫妻には4人の息子がおり、長男は20代、四男はまだ10歳。次男のリアムさん(17)は「母はとてもユニークで特別な人でしたから、神も天国で彼女に会うのが待ちきれなかったのでしょう。僕は神を責めません」とスピーチし、出席者の涙を誘ったという。

 

ブライアンさんは「アマンダは子どもたちと同じくらい犬を愛していました。妻は“ただの犬“ではなく家族の一員を助けるために飛び込んだのです」とAnchorage Daily Newsにコメントした。

 

 

最初に見たyahooの記事には

他の息子さんのコメントも出ていましたが、

 

誰も嘆き悲しんでいない様子が伝わります。

もちろん妻・母親がこの世からいなくなったのですから悲しくないわけがありません。

 

でも悲嘆に暮れて人生が立ち行かない

という雰囲気はこのコメントからは感じられません。

 

そう、

もう一人の10歳の息子さんのコメントは

 

「母のように人生において納得した行動をとれる生き方をしたい。」

 

という内容だったと記憶しています。

 

子供たちに自分の生き方を示して死ねるというのも

見方によっては幸せなことかもしれません。


お二人とも医師とホスピス看護師という、

医療従事者だったんですね。

死について語り合うこともあったのかな。


 

そしてこの時、

私の頭の中に「死を悼まない」という言葉が。

 

そういえば「悼む」ってどういう意味かと調べたら、

「人の死を嘆き悲しむ」とともに

同じ語音である「痛む」でもあり、

「精神的な苦しみ、打撃を受ける。それによって悩み苦しむ」

とあります。

 

次の扉へと送り出しはしても

こちら側が嘆き悲しみ続けていたら

逝く方も新しい世界へ旅立てないかもしれませんね。

 

だから「死を悼まない」ように

自分の心を整理するのが大切かな。

それにはやはり「語って明らかにする」ことのように思います。

 

 

最近、死を語る

「Death Cafe(デスカフェ)」なるものが

あるそうですね。

 

「死についてお茶を片手に語る場」

 

だそうです。

 

 

 

 

 

スイスの社会学者Bernard Crettazさんが、

妻の死をきっかけに、死について語り合う場を思いついたのだとか。

その後、

イギリスの起業家Jon Underwoodさんが

deathcafe.comを立ち上げてデスカフェ開催のガイドラインを公開し、

世界70ヵ国以上でデスカフェが開催されているそうです。

 

日本でも最近発展を見せているようです。

とてもデリケートな問題でもありますので、

少し学んでから、ここ八ヶ岳のキブツ保健室でも

こんな会を開いていきたいと思います。

 



 

 

私は今まで、

犬たちから死に方を学んできたように思います。

 

昨年18才でこの世を去ったハチ。

その前夜、力の限りに吠えて何かを伝えていた。

そして、苦しそうなハチに

「ごめん。私、もうなにもしてあげられない」

という私の言葉を待って、

「ゆかちゃん、私が逝ってももう大丈夫だね」

と、私が眠ってしまった間に穏やかに逝きました。

 

 

山友でもあったハチ。一緒によく歩いたね。
 

亡くなる1か月前、一緒に奈良・熊野へ。
 

 

 

もう20年くらい前ですが、

頭の良かったシェパードのレミー。

スピリチュアルアニマルドクターの高江洲先生に

「こんな犬を飼えるのは幸せだ」

と言ってもらえるほどよくできた犬でした。

彼女がこの世を去る朝、

友人から

「近くに虐待されている犬がいるので一緒に来てほしい」と依頼され、

でもレミーの容体も芳しくない様子。

そしてその朝、母が

「レミーのことちょっと見ててね」

と言って台所に向かうとき、

レミーは苦しいながら身体を起こして何か母に言った。

私がその身体を抱えて数分後、

レミーは身体を離れていきました。

その時に、「私はもう大丈夫。その犬のところに行ってあげて」

とメッセージが伝わってきました。

母は、

「レミーが最後にありがとう、って言ったね」と。

 

 

自分のことより相手のことを第一に汲んで

死んでいくことが私にできるだろうか。

犬たちから死を通して愛を学んできました。

 

 

デスカフェに参加した時は、

いまだに話しながら泣いてしまうこんな話も

聞いてもらうことで心を落ち着けていければと思います。

 

 

今日もお読みいただきありがとうございました。