1995年5月 1st Wednesday

……今日は半袖でもよかったかもしれない。

杉本由佳は、お気に入りのカーディガンの袖を少しまくった。

これを着られるのも、そろそろ終わりかもしれない。

いつもの水曜日の二限目。

由佳はサークルの部室に向かっていた。

友達とおしゃべりしてもいい。

学食で時間をつぶすのも嫌いではない。

でも今日は、昨日手に入れた気になる一冊と、キャラメル味のポップコーンがある。

それだけで、この空き時間をどう過ごすかは決まっていた。

「一人も好き!」

誰も聞いていないのに、声に出してしまった。

由佳は自分で笑った。

部室のドアを開ける。

ドアの向こうの景色は、いつもと違っていた。

「誰?」

珍しく先客ありだ。

かなり年季の入ったソファーに男が横になっている。

由佳が入ってきても起き上がろうとはしない。

ただ一度ため息をつき、それから顔だけをこちらへ向けた。

知らない人間が一人いるだけで、見慣れた部室に少しの違和感が漂っていた。

「おう」

「授業は?」

「自主休講!」

「何それ?」

男は悪びれもせず答えた。

「そっちは?」

「あぁ、前期この時間、空きコマなんだ」

「そっか」

会話はそこで途切れた。

由佳は少し迷ってから、いつもの椅子に腰をかけた。

鞄から本を取り出す。

次に、コンビニの袋からポップコーンを取り出した。

いつもなら気にも留めないビニールの音が、今日はやけに大きく部屋に響いた。

由佳はソファーの方をちらりと見る。

男は相変わらず、こちらに背中を向けたままだった。

わずかばかりの申し訳なさを感じながら袋を開け、一つ口に入れる。

「コレコレ」

大好きなキャラメルの味に、由佳は自然といつもの自分に戻っていった。

本を開く。

昨日、中古書店で見つけた一冊だった。

本のページに目を戻す。

この本も、どこかの誰かを少し楽にしたことがあるのかな。

由佳には、特別な悩みがあるわけではなかった。

毎日を変えてしまうような、特別な出来事があるわけでもない。

友達と話すのは楽しい。

一人で本を読むのも好きだった。

部活に明け暮れた高校時代が終わり、大学に入って一年が過ぎた。

今の生活に、大きな不満はない。

由佳は、こんな毎日が好きだった。

だからこそ、ときどき思う。

自分の知らないところには、まだどんなものがあるのだろう。

知らない場所。

知らない考え方。

知らない誰かの人生。

由佳は、自分の毎日を変えたかったわけではない。

ただ、新しい「何か」を知りたかった。

物語の世界に足を踏み入れた、そのときだった。

「俺、五月病かもしんない」

五月病?

由佳は本から顔を上げなかった。

なに?

わたしに言ってる?

部屋には二人しかいない。

「なにかあったの?」

本に目を落としたまま聞いた。

けれど、さっきまで追っていたはずの文字が、もう頭に入ってこない。

ソファーが軋む音がした。

男は身体を起こすと、由佳の方へ向き直った。

「ゴールデンウイークの最終日さ、バイト先で嫌な客にあっちゃって」

話を聞いてもらえると思ったのか、急に饒舌になった。

「ひどいんだぜ。混んでるからって、あんな言い方あるかよ。こっちだって遊んでるわけじゃないのにさ」

男は高瀬直樹といった。

由佳と同じ写真サークルの、同学年らしい。

顔くらいは見たことがあったかもしれない。

でも、話したことはなかった。

「それは嫌だったね」

由佳はポップコーンを一つ口に入れた。

直樹が、その袋を見ている。

「食べる?」

「いいの?」

由佳が袋を差し出すと、直樹は遠慮なく手を入れた。

一つ食べて、すぐに顔をしかめる。

「甘っ!」

「おいしいじゃん」

「女子って甘いの好きだよね」

「そうかな」

由佳はもう一つ口に入れた。

「甘いものも好きだけど、わたし、お母さんのおいなりさん大好物だよ」

「いなり寿司?」

「うん」

「なんで急にいなり寿司?」

「甘いものの話でしょ?」

「そうだけど」

「おいなりさんも甘いじゃん」

「そういうこと?」

由佳は笑った。

さっきまでやけに大きく聞こえていたポップコーンの袋の音は、もう気にならなくなっていた。

直樹も笑った。

ゴールデンウイーク明けは、本当に、

――俺、この世にいてもいいのかな。

くらいに思っていた。

ほんの一瞬だけだったけれど。

大学に来れば、何となく授業に出て、友達と話して、腹が減れば学食へ行く。

バイトへ行けば、連休で混み合った店内を走り回り、挙げ句の果てには客に怒鳴られた。

別に大学が嫌なわけではない。

友達がいないわけでもない。

大きな悩みがあるわけでもない。

ただ、何となく全部が面倒だった。

だから二限の授業を勝手に休んで、サークルの部室の古いソファーに転がっていた。

そこへ、彼女が来た。

――あの子、同級生の杉本さんかあ。

はじめて喋ったけど、楽しい子だったな。

そういえば、いつも結構、周りに人がいるような気がする。

まあ、今までそんなに気にして見たこともなかったけど。

直樹はそんなことを考えながら、午後の授業へ向かった。

五月病は治っていなかった。

たぶん。

でも、さっきよりは少しだけ、どうでもよくなっていた。

* * *

1995年5月 2nd Wednesday

翌週、本当に二限が休講になった。

直樹は少しだけ時間を持て余した。

学食へ行くにはまだ早い。

友達を探すほどでもない。

午後の授業までアパートに戻るのも面倒だった。

ふと、先週の部室を思い出した。

あの古いソファーは、見た目に反して意外と寝心地がよかった。

「ボロいけど、寝心地いいんだよな」

誰への言い訳ともつかない独り言を呟きながら、直樹は部室へ向かった。

ちょっと昼寝するだけ。

それだけだった。

ドアを開ける。

甘い匂いがした。

「あれ?」

由佳がいた。

「また自主休講?」

そうか。

今日、水曜か。

直樹は一瞬、立ち止まった。

別に覚えようとしたわけではない。

杉本さんが水曜日の二限にここにいると、わざわざ記憶したつもりもなかった。

カレンダーでも見たっけ。

少し考えたが、分からなかった。

「今日は本当に休講」

「へぇ」

「本当だって」

「別に疑ってないけど」

「その顔、疑ってるだろ」

「どんな顔?」

「今の顔」

由佳は笑った。

直樹は先週と同じソファーに寝転んだ。

由佳は本に目を戻した。

先週と同じように、部屋には甘い匂いがしていた。

直樹は、最近ほとんどサークル活動に顔を出していなかった。

授業のあと、そのままバイトへ向かう日が増えたからだ。

急なシフト変更を頼まれることも多い。

「まぁ、サークルもそれほど真剣にやってたわけじゃないけどね」

友人にはそう言っていた。

だから直樹は、まだ知らなかった。

杉本由佳が普段、誰と一緒にいるのか。

サークルではどんなふうに笑うのか。

どんな写真を撮るのか。

直樹の知っている杉本由佳は、今のところ、古い部室の椅子に座って本を読み、いつも何か甘いものを食べている。

水曜日の杉本さんだけだった。