1995年8月 サークル撮影旅行2日目・午後
午後の目的地は、ある映画のロケ地となった山村と、湧水が流れる散策路だった。
水車小屋やわさび田が残る日本の原風景を巡り、その夜は山梨の宿へ向かう予定になっている。
朝の賑やかさが嘘のように、車内は静かだった。
聞くに聞けないというより、何から話せばいいのか分からない。
堀川と平野は、そんな空気のまま同じ車に揺られていた。
「さっき、高瀬のやつ、杉本さんのことだよな」
「由佳って呼び捨てだったな」
「そんな関係?」
「いや、聞いたことない」
「こっちからは聞けないよな」
「そうだよな」
車に乗り込む前、二人はそんな会話を交わしていた。
――声に出してしまった。
でも、誰にも気づかれていないようだった。
「どうしよう」とは思わなかった。
確証はないけれど、なんだか呼べそうな気がした。
「由佳」と……。
* * *
午後最初の目的地は、ある映画のロケ地となった山村だった。
高原を吹き抜ける風は爽やかだったが、真夏の日差しはやはり強い。
その集落に並ぶ家々の屋根は、直樹には見慣れない形をしていた。
年月を重ねた木々に囲まれた静かな村は、映画のワンシーンがそのまま残っているようだった。
直樹たちの車が駐車場へ着いた時には、先に到着した仲間たちはもう歩き始めていた。
「急ごう」
そう声を掛け合いながら、直樹たちも細い坂道を上っていく。
皆の過ごし方は様々だった。
建物を夢中で撮り続ける者。
友達同士で記念写真を撮る者。
景色を眺めながら、ただ歩く者。
直樹は、人ではなく、一人の姿を探していた。
――村の名前、どうして鬼なんだろう。
そんなことを思いながら、由佳は青空へ伸びる屋根をファインダーに収めていた。
「ちっとも怖くないのにね」
「また空を撮ってたの?」
振り返ると、少し息を切らせた直樹が立っていた。
「どうしたの?」
「いや、その……また遅れた」
「アハハ」
由佳は、いつものように明るく笑った。
「午前中は、いい写真撮れた?」
「いいか悪いか分からないけど」
少し照れながら答える。
「撮りたいものは撮った」
「そう。良かったね」
細い石畳の道を、二人はゆっくり並んで歩く。
由佳は気になる景色を見つけるたびに立ち止まり、カメラを構える。
直樹は、そのたびに足を止めて待った。
話したいことは山ほどあるような気がした。
でも、それ以上に言葉はいらないような気もした。
夏の光と、どこか懐かしい村の空気が、二人の間を静かに流れていた。
気がつけば、出発した駐車場へ戻っていた。
二人は小さく手を振り、それぞれ別の車へ乗り込んだ。
* * *
次に訪れたのは、澄みきった湧水が流れる散策路だった。
高原とはいえ、真夏の昼間は暑い。
だからこそ、水辺を渡る風は心地よく、せせらぎの音まで涼しく感じられた。
清らかな流れの中では、水草のバイカモがゆっくりと揺れている。
水音は小さい。
それでも、水草の動きが、絶え間なく水が流れていることを教えてくれていた。
――今度は、カメラを持って行くか。
肩にストラップを掛けて車を降りた自分を、直樹は少しだけ褒めた。
「なんか不思議だなぁ」
水際にしゃがみ込み、そっとカメラを構える。
シャッターを切る。
カシャ。
「写真部っぽくなったね」
いつの間にか隣へ来ていた由佳が、少し意地悪そうに笑った。
「俺の本気を知らないな!」
「どーかな?」
その笑顔が悔しくて、直樹は思わず小川の水をすくい、由佳へ軽くかけた。
「冷たっ!」
「やったね?」
「お返しっ」
今度は由佳が水をかけ返す。
「おい、やめろよ」
「先にかけたの、そっちじゃん」
笑いながら、水しぶきが夏の日差しにきらきらと弾ける。
直樹は、ふと思い出したようにカメラを構えた。
「由佳! こっち見て」
由佳が振り向く。
その笑顔に合わせるように、小川の水が眩しく光る。
カシャ。
夏の光も、水音も、弾ける笑顔も。
その一瞬が、一枚の写真になった。