1995年5月 3rd Wednesday
「結構、おもしろいかも」
由佳はコミックを閉じた。
弟の反応が気になる。
家に帰ったら渡そうと、コミックを鞄にしまった。
時計を見ると、次の授業まではまだ少し時間がある。
それでも由佳は、いつもより少し早めに部室を出た。
階段を下り、渡り廊下へ出る。
前方を、誰かが走っていた。
高瀬くんだった。
あんなに急いで、どこ行くんだろ?
声をかけるには少し遠い。
由佳はそのまま歩きながら、遠ざかっていく背中を見ていた。
そういえば最近、わたし、走ってないなぁ。
高校を卒業して、まだ一年と少ししか経っていない。
毎日のように体育館を走り回っていたのに、もうずっと昔のことのように思える。
直樹の姿は、建物の角を曲がって見えなくなった。
由佳もまた、次の教室へ向かって歩き出した。
*
少し前。
「ラッキー!」
教授が予定より早く講義を終えると告げた瞬間、直樹は小さく声を上げた。
このおじいちゃん教授の授業には、時たまこんなサプライズがあるから好きだ。
もちろん、授業の内容とはあまり関係がない。
教室を出ると、直樹は時計を見た。
次の授業まで、少し時間がある。
「直樹! どこ行くん?」
佐々木健太の声が後ろから飛んできた。
「ちょっと飲み物買ってくる。今日暑すぎだろ」
そう言って、直樹は走り出した。
近くの自販機とは、違う方向へ。
階段を下りる。
渡り廊下を抜ける。
五月とは思えない日差しの中を、直樹は走った。
暑い日に全力ダッシュする俺。
何やってんだろ。
飲み物なら、教室を出たところにも売っている。
わざわざ部室近くの自販機まで行く意味を、直樹は考えた。
分からなかった。
ただ、時間はあまりなかった。
だから走った。
* * *
1995年5月 Last Wednesday
「もう五月終わっちゃうね」
すれ違う女子学生の声が、直樹の肩をすり抜けていった。
五月。
今朝、部屋を出る前に見たカレンダーが頭に浮かぶ。
今日は、水曜日だ。
教室に入ろうとしていた足が止まった。
「うわっ」
後ろを歩いていた健太が、直樹の背中にぶつかった。
「どした?」
直樹はしばらく、その場に立っていた。
「悪いっ。代返頼むわ」
「は?」
直樹はもう歩き出していた。
「おい、どこ行くんだよ!」
振り返らずに片手を上げる。
部室までは、歩いて五分もかからない。
*
その日、由佳は少し高揚していた。
鞄の中には、発売日に読めなかった『週刊少年ジャンプ』が入っている。
ようやく読める。
それだけのことで、朝から少し楽しみだった。
由佳は、周りの子達の趣味を否定しない。
自分にはよく分からないものを好きな子もいた。
中には、本当に変わった趣味だなと思う子もいる。
それでも、それはその人を形づくる一つのピースなのだと思っていた。
好きなものの話をしている人は、少しだけいつもより輝いて見える。
由佳は、そんな顔を見るのが好きだった。
なのに以前、真紀から、
「由佳って、ジャンプ読むの?」
と言われたとき、少しだけ恥ずかしかった。
「読むよ。弟も読むし」
なぜか、聞かれてもいない言い訳をした。
弟が読むからではない。
由佳自身が読みたいから読んでいる。
そんなことは、自分がいちばんよく分かっていた。
だから今日は、誰もいない部室でゆっくり読もうと思っていた。
ドアが開いた。
「あれ?」
「何?」
「今日は?」
「自主休講」
「……また?」
「またって何だよ」
由佳は笑った。
直樹の視線が、由佳の膝の上に落ちた。
「ジャンプ読むの?」
由佳は一瞬だけ、雑誌を閉じかけた。
「読むけど」
「何が好き? ジャンプ」
「今はスラダンかな」
「幽白かと思った」
「え? そんなイメージなの? 幽白も好きだけどさ」
由佳は少し驚いて、直樹を見た。
「じゃあ当たってるじゃん」
「一番じゃないから、ハズレ」
「厳しいな」
由佳は笑いながら、ジャンプを閉じた。
「高瀬くんは高校の時、部活何をやってたの?」
「俺? 陸上だけど?」
「へぇ」
由佳は少しだけ直樹を眺めた。
「種目当ててみるね!」
「分かるわけないだろ」
「う〜ん、ハードル?」
「残念! 走り高跳び」
「えー、意外」
「そうか?」
「だって、いつもソファーに沈んでるじゃん」
「それとこれ、関係ある?」
「あるよ。なんとなく」
「なんとなくかよ」
直樹は笑った。
「杉本さんは?」
「何が?」
「部活」
「ああ。バドミントン」
「へぇ」
「何、その反応」
「いや、なんか分かる」
「何が?」
「なんとなく」
「仕返し?」
「違うって」
由佳は笑った。
直樹も笑った。
そのあと、何を話したのか。
漫画の話だったか。
高校時代の話だったか。
サークルの誰かの話だったか。
話は次々とつながった。
二人とも、あとになっても全部は思い出せなかった。
ただ、その日の二限目が終わる頃には、読みかけのジャンプは由佳の膝の上で閉じられたままになっていた。
やがて直樹は立ち上がった。
「じゃあ俺行くわ」
「授業は?」
「……もういい」
「何それ」
由佳が笑った。
直樹は部室を出た。
もう今日は誰にも会いたくない。
さっきの短い時間を袋に詰めて、そのまま家まで持ち帰りたかった。
教室とは反対の方向へ歩き出す。
初めは、いつもと同じ速さだった。
少しずつ、歩幅が広くなった。
気がつけば、走っていた。
* * *
1995年6月 1st Wednesday
梅雨の走りだからだろうか。
どんよりとした雲が空を覆い、湿った空気があたりを満たしていた。
「髪の毛、広がっちゃって嫌だよね。この時期」
隣を歩く小川真紀が、手鏡を覗き込みながら言った。
「だよね」
確かに、少しクセのある髪の由佳にとっては面倒な季節だった。
これから本格的な梅雨になれば、もっとひどくなる。
朝、時間をかけて整えても、大学に着く頃には毛先が好き勝手な方向を向いている。
それは嫌だった。
でも、雨は嫌いではない。
曇り空も。
湿った空気も。
雨に濡れて色を濃くした木々も。
濡れたアスファルトの上を、雲の形がゆっくり変わりながら流れていくのを眺めるのも。
「由佳、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「絶対聞いてなかった」
「聞いてたって」
「じゃあ何の話?」
「髪の毛が広がる話」
「それ、最初の話じゃん」
由佳は笑った。
真紀と別れたあと、一人で部室へ向かった。
今日は水曜日だった。
由佳はいつもの椅子に腰を下ろした。
鞄から本を取り出す。
次に、コンビニの袋を覗いた。
今日のお供は、何となく選んだヨーグルト味のタブレットだった。
一粒取り出して、口に入れる。
「すっぱ! こんな味だっけ?」
思わず顔をしかめた。
子供の頃、よくお母さんに買ってもらったっけ。
弟も好きだったなぁ。
男の子って、サイダーとかコーラとかの味ばっかり。
由佳はもう一粒口に入れた。
やっぱり、すっぱい。
本を開く。
一ページ。
また一ページ。
少しずつ、部室の中のものが消えていった。
古いソファーも。
窓の外の曇り空も。
廊下を歩く誰かの足音も。
お話の世界に入り込む。
周りの雑音はない。
わたしを物語に閉じ込める、心地よいこの時間。
ふと時計を見る。
「あっ、こんな時間。もう行かなきゃ」
由佳は慌てて本を閉じた。
残ったタブレットをコンビニの袋に戻す。
後で弟にあげよう。
鞄を肩にかけ、由佳は静かに部室を出た。
ドアが閉まる。
誰もいなくなった部室には、古いソファーと、六月の湿った空気だけが残った。