故郷の恩師から | ママゲリア聖子の大阪ロマンチック

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北大阪在住、食いしん坊で呑んべえのなかよし夫婦のいろいろを記録しておきたいと思います。こんなに楽しい毎日、本当に感謝しています。


昨日、宅配便で清酒が届きました。
神奈川県伊勢原市の菊勇酒造の「大山」という酒です。
送ってくださったのは、私の中学時代の恩師です。
父の仕事の都合で、伊勢原市で子ども時代を過ごした私が、中学1年生の時に、国語を教えていただいた先生。

当時若々しくて、勢いのある人気の先生だったことは覚えています。だけど、40年近くたった今、こんな贈り物をくださるなんて!
どんなご縁なのかお話しましょう。

小学校に上がる少し前に神奈川県に転居し、高校の途中でまた大阪に戻ってきた私にとって、他には住んだ土地はなく、伊勢原は第2のふるさとと言ってよい懐かしい場所です。
箱根駅伝の通る東海道や湘南海岸からは内陸に入っており、大山丹沢山系の山懐の農業地帯、というのが住み始めた頃の印象でした。町の大通りは、大山という、富士山と並んで江戸の人たちの信仰の対象となった霊山の参道となっており、街道の面影がうっすら残る史跡もあるひなびたところ。けれども、新宿まで小田急で1時間という場所のため、どんどんニュータウン開発されて人口が急激に増加する時代にそこに住んでいました。

子ども時代から思春期の多感な季節を過ごした、キラキラした痛い思い出がいっぱいつまったところです。

けれども、そこには親戚があるわけでもなく、再び転勤でそこを去ってからは、なかなか訪れる機会もありません。
何度か同窓会の案内をもらっても、子育ての最中、行くことはほとんどありませんでした。

けれども、数年前の3月、幹事をしてくれた同級生が、今度の同窓会はみんな年男年女の節目だし、お世話になった先生がそろそろ退職なさる時が来ているので、参加者も大勢で、盛大にやるからぜひおいでと、熱心に誘ってくれたのです。
前向きに検討したけど、やはり神奈川は遠く、私は不参加でした。

「O先生も、その日は関西に旅行中で参加なさらないんだけど、そっちでふたりで同窓会するのはどう?」
と、思いがけない取り計らい。
私のことなんて覚えてるはずないよ。

ところが、まさしく同窓会の最中くらいの時間に、繁華街で買い物途中の私の携帯がなりました。先生からでした。

「明日はスケジュールがフリーだから、会わないか?」
って。いやはや緊張します。なんなのこの展開。

翌日、先生の滞在されている神戸のホテルのロビーで待ち合わせしました。私の姿を見てソファーから立ち上がったおじちゃんがいる、先生?
国語はいちばん好きな教科でしたので、会うことにしましたが、数学や理科の先生なら仮病使ってたなぁ。
私の方はたちまち先生の面影がよみがえりましたが、先生は、全然思い出せなかったそうです。そりゃそうだよ10クラス以上あったし。

先生は、その後、神奈川県立高校の先生になられ、その春はまさしく定年退職なさった時でした。最後の赴任校の同僚の先生方と、記念の関西旅行だったのです。
4月からは、非常勤の講師と、カルチャーセンターで、「源氏物語」の講座を担当するって。
私は当時源氏物語を読んだばかりだったので、
「残念。宇治ならご案内出来ましたのに。」
ちょうど源氏物語にまつわる史跡巡りの旅をしたところでした。
「でも先生。ここからなら須磨は近いです。」
帝の怒りを買い、須磨に流刑となった光源氏が、明石の君と出会った隠れ家…なんて、残ってるわけないじゃん。源氏物語はフィクションだよ。
でも、須磨は文学の舞台になった史跡の点在する散歩道があります。


雨が降ってきました。
電車を降りて浜辺に続くところのコンビニでビニール傘を買って、坂を上ります。
垂れ梅が見事なお寺で雨宿り。

そこは、能の「松風 村雨」の舞台。
「流刑の身の在原行平と、汐汲をする地元の美しい姉妹、松風と村雨との悲恋ゆかりのところだね。
百人一首の「立ち別れ いなばの山の峰に生ふる 待つとし聞かばいま帰り来む」との和歌の詠まれた場所だよ。」

ヤバい。先生の古典の授業独り占めだ。

さらに須磨寺まで歩きます。

勇壮な武者の石像発見。

「平家物語の「敦盛の最後」の舞台だね。
一ノ谷の合戦で、熊谷次郎直実が、追い詰めた敵の首を今まさに捕ろうと言うとき、兜の下の武者の顔があまりに美しくて…」
有名な話でよかった。それなら私も知っています。
それを語る先生の描写の生き生きと豊かなことったら!

なんて贅沢なの!
鼻ほじって眠気と戦っている中学坊主には、こんな授業もったいないよ。義務教育って侮れないなぁ、ガキんちょに、こんな文学の香り高い知識を注入してくれていたなんて、贅沢の極み。

そのあと、通りすがりの神社で茅の輪をくぐり、三宮の高架下の居酒屋で、ご飯をご馳走していただいて、握手をしてお別れしました。

ひとりの教師がその教師人生にピリオドを打つ、退職した年の春風が、春の雨が、それなりに感慨深いものだと言うことは、私にもわかるのです。
その節目に、かつての教え子と(干支一回り違いです。つまり、残念ながらそこそこおばちゃん)旅先で、文学散歩。


そのしばらくあと、私にとって、空前の「俳句ブーム」がやって来ました。このことの詳細はまた近々書く機会がありそうです。
いくつかの俳句結社の句会に飛び入り参加させてもらったりして師匠を探したけど、これはと思う先生とは、出会えませんでした。

そこで、私はお願いして、故郷の恩師にメールで俳句を送り、添削してもらうことにしました。
大胆な取り合わせが出来たときは、誉めてくださり、陳腐な発想のものは取り上げない先生の指導のスタイルが、私には本当にありがたく、お陰で俳句作りがとても楽しくなりました。先生からも、
「君の俳句はどうやら本物だから、送られてきた俳句をすべて帳面に書き留めていくことにしました。」
と言っていただき、しばらく新鮮で幸福なやり取りが続きました。

ところが、徐々に俳句ってものがわかり始めてくると、逆に才能のなさを思い知ることになって、だんだんと、熱が冷めてしまったのです。
先生に、「やめます」とも告げず、フェードアウトしてしまいました。無礼な私。

心配してくださった先生の年賀状に、
「そろそろ、地元の酒蔵の新酒が出るので送ります。」
と書かれていました。
ごめんなさい、先生。

俳句からは遠ざかってしまったけれど、今の私はblogによって、季節や感情をスナップしています。読んでくださったら嬉しいです。

そして、送っていただいたお酒は、熱燗にして、ボタン鍋と共にいただきました。仙台の笹かまぼこ、焼いた銀杏、カキと葱を炒めた一皿も一緒に、酸味の強い初めて呑む故郷の酒。

先生、関西にもいい酒があります。
送ります。飲んでください。


書かなければならない言い訳が多すぎて、すぐにはまとめられません。
取り急ぎ、長男の撮った写真のポストカードで、お酒のお礼を。
我が師の恩についてのお礼は、また後日ゆっくり書きますね。