今日はB型作業所の職員さんに教えて貰った「第7回 人生十人十色大賞 短編部門」に応募した短編の自伝小説「精神障害者3級に神は宿ったか?」をブログにもアップします📝

タイトルは気に入っているけれど、オモロい所はほとんどない小説です。

読んで頂けたら嬉しいです🙇‍♂️よろしくお願い致します🙇‍♂️足立区一のお調子者f@


「精神障害者3級に神は宿ったか?」

子供の頃はテレビばかり観ていた。
デブで運動神経が悪く、勉強はフツー。図画工作や音楽なんかも特に才能がなく、不器用。
中学に入ってもテレビばかり観ていた。
家の東京新聞販売店の手伝いで、朝夕刊配達し、集金をしていたので部活は帰宅部。先輩後輩の上下関係をあまり経験せず、友達も少なかったので、人との付き合いが苦手だった。少しイジメられ気味。
中学三年の時に将来に対する漠然とした不安から十二指腸潰瘍になり、体重が落ちて一時デブでなくなった時期はあった。しかし相変わらず運動神経は悪く、勉強もフツー。美術や技術家庭、音楽も特に才能がなかった。
高校は偏差値60くらいの中の上クラスの高校へ進む
高校へ行っても相変わらずテレビばかり観ていたボクに2歳年上の兄が「やる事ないなら大学受験の勉強でもしたら」と言ってきたので、高校一年の頃から兄のアドバイスを受けて大学受験の勉強をし始めた。文系を選択し、初めは得意の日本史が偏差値55くらいあったが他は偏差値40前後と低低ピューの偏差値だった。やる事はテレビ観るくらいでそのテレビ観る時間を少し勉強に回していたら、高校3年の時は国語英語日本史どれも偏差値58くらいにはなった。
立教・明治・中央・上智・早稲田の法学部を受けたが撃沈。一浪の一郎君になってしまった
頭のいいのは合格しているので、一浪の初めの代ゼミの模擬テストから偏差値は60後半の好成績になった
新聞配達しながら、代ゼミの英語の青木先生と古文の国広先生の講座を受け、日本史は菅野先生の日本史ノートを覚え、模擬テスト・受験する大学の過去問をガンガンやっていたら、模試の成績優秀者として賞品が貰え名前が載るほど偏差値は上がった。
そして立教は落ちたものの、明治・上智・中央・早稲田の法学部には合格し、早稲田大学法学部へ進学した
大学時代は司法試験に合格して弁護士になる為に勉強していたが、今度は大学の図書館のレーザーディスク視聴コーナーでテレビではなく映画ばかり観ていた。サークルは法律系のサークル緑法会に入り、大学の講義が終わった後の夜間の、弁護士さんが行う司法試験用の講義などにも出ていたが、司法試験の勉強は手応えがなく、やはり独りで映画ばかり観ていた。
大学四年の時初めて司法試験受けるが、勉強をほとんどしてないので択一で惨敗。一時司法試験は諦めた。
司法試験を諦めて就活を行う。松竹・東宝・東映やカルチャー・コンビニエンス・クラブ、ギャガ・コミュニケーションズなど映画関係の企業などを受けるがことごとく撃沈。7月くらいにまだ残っていたGEOを受けてようやく内定を貰えた
GEOに入社し愛知県の本社で働きだす。苦手な人間関係、慣れない一人暮らし、で鬱になり愛知から東京へ戻ってくる。東京でも鬱になりながら仕事は続けていたが、一年半で仕事ができずクビを切られる
次に家族経営の小さな町のレンタルビデオ屋さん館商事でレンタルビデオ屋の店長を務める。仕事は楽しかったが将来に不安を感じ一念発起再び司法試験に挑戦する
清掃会社で清掃作業をしながら司法試験の勉強をしていたが、家族が新聞屋さんの住み込みで働ける事になり、ボクも新聞屋さんに住み込み、働かずに集中して司法試験の勉強をした。独学で択一の過去問を何度も解いていたら択一には合格できた。しかし論文はオールE判定。論文の勉強の仕方が全く分らず司法試験の勉強が苦になり勉強を投げ出す。司法試験失敗により鬱の後躁になり町でトラブルを起こして田無の精神病院薫風会山田病院に強制入院。
退院後、半年くらいこころのクリニックなりますのデイケアに通っていたが、またまた兄から「何もする事が無ければ働けばいんじゃね」と言われて、ハローワークで警備の仕事を見つけて、クローズで警備会社スリーエスに就職。
警備で5年働いたが、またまた躁で仕事場でトラブルを起こしスリーエスを退社。
デフレ不況が続き就職困難だったので、今度は精神障害者雇用で働こうと感じ、精神障害3級を申請して、精神障害者雇用で薬問屋東邦薬品の倉庫作業で働きだす。
しかしここでも働きながら数回躁鬱を繰り返し、数回躁になるたびにトラブルを起こしたが、精神障害者雇用の配慮がありナントカ7年は続けられたが、最後は躁の後のキツイ鬱で全く仕事が出来なくなり、東邦薬品も自主退職
そこからは無職になり、キツイ鬱の後少し回復した時に、通っていた精神科の病院成仁医院のデイケアに通いだす。
2人分1食500円、一ヵ月31日3食作って予算46500円の食事作りに成功して再び躁状態になり、家族の同意で成仁病院に2回入院。退院後は母が高齢になってきた為、家事と母の介助をしながら、成仁医院のデイケアやB型作業所に通う。
これがボクの半世紀50年生きてきた人生の総括

以上