ある人の死を持って

私は、生きてるのではなく

生かされているんだ

と言う事を感じました


私自身、今年で47歳となりますが

何度か人の死は、経験しました


今回は、自死という内容でした


死について、考え初めたのは

小学校の時だったでしょうか


自分が大きくなっていくと

親が歳を取っていく流れを感じ

死は、順番でやってくるんだと恐怖を

感じたのを覚えています

お爺ちゃん、お婆ちゃんのお葬式では

大人達が、病気の話しをしていて

なんとなく、歳を取って死ぬ時は

病気になり、弱っていき

死んでいくんだなと

そんな様な感覚だった気がします


親より早く死ぬ事は

親不孝だとか言われたりもしていました

そういうパターンが

少なからず、世の中には存在し

親の悲しみは、計り知れない様に

描かれていました


そんな風にしか

死を捉えられていなかった時

健康診断の結果や誰かと比べ

自分は、まだ大丈夫だなと

安心を得ていたに過ぎませんでした


長男が不登校になった時

同い年の不登校の女の子が

自ら命を絶ったというニュースが流れてきました

不登校の内容が

息子と似ていたのもあり

内容が重なり

胸が痛くなったのを覚えています

他人事ではない感情に襲われました


部屋でずっとゲームをしていて

鬱病の様な症状の息子の存在


ここに居てくれている事を

当たり前に思うのは

辞めようと思いました


学校とはなんなのか

命と比べた時に

冷静に考えたら

どちらが大切かなんて

一目瞭然のはずなのに

そんな、大事な事に

何故、気が付けなくなっているのか

それが、問題なのではないかと

思う様になりました


何かがおかしい

何かがズレている


そして、日本の自殺者が世界でも

とても多い事を知りました


この時、初めて、自死について

真剣に考えたと思います


その後も

知り合いの知り合いの息子さんがとか

知り合いの知り合いのお子さんがとか

何度か耳にしました

やはり、ニュースでも

また、と言う事が続きました


今回は、身近な人に起こってしまいましたが

死や表裏一体にある生についても

そうだけれど

普段、普通に生活しているだけでは

なかなか考えたりするきっかけは

ないと思います


私の様に、身近な人達の死によって

考えるきっかけを与えられますが

それも、きちんと意識を向けないと

なかなか難しいのかもしれないなと

思います


親より先に逝ってとか

馬鹿な事をしてとか

気が付いてあげれたらとか

後悔の念を口に出す人もいるでしょう


出て来る言葉によって

どれだけの関わり合いがあったかどうか

だいたい、わかるでしょうが

結局、何か型の様な物の中での

会話が多い気がします


何故、自死を選ぶ事になってしまったのか


自殺大国日本で

自分の身近な人に迄

起こり始めている現状


その選択しかなかった事が

私の中では

1番悔しいというか悔やまれる事かも

しれません


悲しさや寂しさ

何も出来なかった虚しさ


感情を感じ、泣きました


今の私に出来る事は

自分の感情としっかり向き合う事しか

出来ないのだと気付きました


少しでも視野が広がった視点から

物事が見れたなら

少しでも心に余裕が生まれ

心が軽く出来たなら‥


しかし、あの時の私では

勉強不足で、正直、無理でした

今の自分なら

可能性が

あの時よりはある


私の心が振動している


土の時代に染み込まされた

そうだと思いこまされてしまった

概念から解放され、軽く生きていく世界

そんな未来のイメージを感じています


私の小さなメッセージが

ひとりの人の胸に

突き刺さるかもしれない

そこから、また、ひとりへと

広がっていく可能性がある


その繰り返しは

いつの間にか大きな風となり

地球を巡っていく


生きていると考えると

何故、生きているのかと考えたくなるけれど

生かされていると思うと

なんだか、自然と感謝の気持ちが湧いて来て

自然と何かしたくなってくるのかも

しれません