私は、3人の子供達に恵まれました


性質も体質も違う我が子達


そんな風に、ひとりひとりを

一個人として見れていない

まだ、未熟だった頃


3人共が不登校を選択していく流れに

私の心はついていけるはずもなく

でも、その流れは

容赦なく繰り返されました


どうして何度も起こるのかと

問い続ける中で

基本的には、未熟さ故なのですが

詳細な課題が何なのか

やはり、それを理解するには

自分の内側へと意識を向ける事が

1番の近道ですから

繰り返し繰り返し

やっていました


そうこうしていくうちに

その都度、私の受け入れ方も違い

学びの内容も違っている事に

気が付いて行きました


不登校の子を持つ親を体験する事

しかも、3回繰り返す事で

私の中に、まだ在るであろう

少しの希望

少しの期待

と何度も向き合わされました


もしかしたら、これをきっかけに

普通に行き始めるかもしれないという

希望や期待です


一日行けたりすると

湧いてくる感情


そんな未練の様な気持ちは

ことごとく、打ちのめされるのですが

この繰り返し起こる事の意味が

あるんだとしたら

完全に諦めて

反対側を

本気で体験し味わうのかを

問われているのかもしれないと

考える様になりました


中途半端では

駄目なんだと言う事だと

徐々にですが

理解して行きました


実際、子供達が

学校に通っていた時に見ていた世界とは

全く違う世界を体験して

私の世界観は、広がりました


うちは、共働きだったのもあり

以前の私は

学校に行ってくれてると

家に子供だけでいられるより

安心感がありましたし

勉強を教えてもらえるとか

同年代と関われるとか

そんな単純な捉え方でした


子供達が、通わない選択をした事によって

それは、叶わなくなり

通わないという

反対側の側面に触れる体験が

始まる訳ですが

初めは、正直、きつかったですよね

一般的な幸せは

ないと絶望しましたから


でも、絶望から見えてきた世界が

ちゃんとありました


一方通行だった物の味方が

少しずつ広がっていき

ひとつの側面からしか見えていなかったから

苦しかったんだという事にも

気が付いて行きました


時代は、令和なのに

戦後からほぼ変わらない教育方針であるとか

詰め込み暗記の勉強方とか

自分の事より

協調性や思いやりが重視されていて

自分を大事にするなんて

なかなか出来ない環境である事など


戦後の復興とかのあの時代には

同じ方向に向く為に

国を活性化させる為に

メリットは、大きかったのだと思います


でも、その結果

指示された事には

しっかりやる様にはなりましたが

自分で考え動く事は

出来なくなってしまったのでは

ないでしょうか

社会の中で

ルール以外は、対応出来ない人達を

沢山見てきました

コントロールする側からしたら

扱いやすい人という構図も

見えてきました


集団生活では

個人の思いを大事にするよりも

協調性や思いやりばかりが言われ

場面場面で

立場や他者から

良いとされる行動や言動を選んでいるだけで

本当の自分の気持ちで動いているのか

違うのではないか

疑問に思う様になってきました


視点を変えて観察した

私が感じた世界観でしかありませんが

そんな世界に

身を投じていたとしたら

自分の本質なんて

分からなくなって

当たり前かもしれない


ひとつの物事に対して

疑問や問いを持ち

別角度から観察し

学校に通わない事と

照らし合わせて見た時に

1番最初に自分にした問いは

自分の子供達に

それを無理に強制出来るのかと言う事でした


何も知らなかった自分

ではないです


そういう事も一理あると分かった自分は

どう行動するかという事を

問われていました


私の答えは

強制は出来ないでした


これは、私がいろいろな観察や知識

体験から辿り着いた主観です


そして、最終的に

行きたかったら行くという

選択が出来る状況が

私達家族には

1番しっくりと来ました


しかし、この選択するという行動には

責任が伴う事も理解しました

まだ、判断出来る歳でなないという意見も

あるでしょうが、本当にそうなのか


そう、思い込んでるだけだとしたら

子供達の可能性を奪っているのかもしれない


ひとつの側面に飲み込まれない為にも

多方向から物事を見る様に、意識をしました


子供達に対しても

自分に対してもですが

自分の意志で選択した事に

ちゃんと責任を持たせるように意識しています


自分の選択、行動、言動、そして感じた感情に

自分で責任も持つ事が

私が今、大事かなと思っている事です


ただ、急に行く事で

ついていけない我が子の現実もあります

対応して下さる先生方には

本当に、感謝してます


どちらも体験させてもらえる事に

今では、有り難く感じています


どちらにも学びがあるからです


結局、どっちが得でどっちが損なんて

ありませんでした


物事には、必ず対照的な側面が存在する

という事だけでした


通わない事を選んでも

必ず学びがあります


皆と同じ体験は出来ないですが

それが、ベストなタイミングで

ベストな体験かというと

多分、違うでしょう


4月から3月生まれをひとまとめにし

ひとつの箱の中に収め

教えているに過ぎません


沢山のカリキュラムをこなす事が

メインですし

先生が1人で見切れる人数ではないでしょう

そこに、個人を尊重するなんて

そもそもが無理な話しなのです


環境が良くなればと

外側が変わる事を期待し

良い先生に当たれば

そんな、宝くじのような感覚

当たれば喜び、外れたら落ち込み


余裕がない中で行われる、運試し


外側によって

振り回され、一喜一憂する日常


そんな自分でいたいのかと言う

問いもありました


現在、1番下の子(小4)の

不登校と向き合う日々ですが

先日、次女は、私にこんな事を

伝えてくれました

「学校は疲れる、頭が痛くなる、楽しくない

でも、他の皆んなは、毎日通っている

自分は出来ないけれど

出来ている皆んなは、凄い」


その後、

娘は、そんな自分を責めたりしません

以上という感じです


以前の私なら

何でうちの子は、出来ないんだろう

何が足りないんだろうと

足りない物探しを

一生懸命にしていました


今は、もう、あまり目の前の出来事に

振り回される事はなくなってきました


今回の事に関しても

その嫌だ、出来ないを知る事の先には

真逆にある

自分にとっての好きが在る事に

気が付きました


私も次女も、少しずつですが

自分の好きを見つけては、楽しみ

自分の中に、見出し始めています


好きな事が見つからないのは

その嫌いや出来ないという感情から

目を背けてしまっていたからでした


決して、我が儘とは、違います

自分勝手とは、違います


好きと出会えるきっかけと

捉えると受け入れ易くなるかもしれません


嫌いや出来ない自分が受容出来ると

好きが分かり易くなり

結局、どっちも自分だけれど

私は、こちらを選ぶ


居心地の良い方を

自然と選択する自由が

そこにはありました


全体を受容しながら

こっちと軽く選んで進んでいく


そんな、周波数が

これからの時代の生き方かもしれません


繰り返す体験は

まだ、私の中に

残された課題があるからだという事なのでしょう

そして、家族というのが

私にとっては、1番衝撃を受けやすく

本気で取り組んで行くからなのでしょう


正直

えっ!?まだあるの??って言う瞬間も

ありますww


でも、最近では

それも慣れて来ました


目の前に起こる事を

受け入れる癖がついた様です


受け入れてしまうと

展開が早いですね


クリア出来ると信じた

未来の自分が

設定しているはずなんですよね


このタイミングで起こっているのにも

その事に、気付き易く

クリア出来るタイミングであるからだと思います


精神的な学びに

終わりなどないのでしょう


無限に広がる宇宙の様に

人間の可能性も

計り知れない気がしています


この地球で

肉体を持った状態で

何処までいけるのか


まだ、怖がっている自分が

たまに出てきたりしますが

そんな風に

ワクワクしている自分を

少しずつ

感じられる様になって来ています♪