「サラエボの花」でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したヤスミラ・ジュバニッチ監督が、1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の中で起きた大量虐殺事件「スレブレニツァの虐殺」の全貌と、その中で家族を守ろうとした一人の女性の姿を描いたヒューマンドラマ。国連平和維持軍の通訳として働く女性を主人公に、家族を守るため奔走する彼女の姿を通して、事件当時に何が起こっていたのか、虐殺事件の真相を描き出す。1995年、夏。ボスニア・ヘルツェゴビナの町、スレブレニツァがセルビア人勢力によって占拠され、2万5000人に及ぶ町の住人たちが保護を求めて国連基地に集まってくる。一方、国連平和維持軍で通訳として働くアイダは、交渉の中である重要な情報を得る。セルビア人勢力の動きがエスカレートし、基地までも占拠しようとする中、アイダは逃げてきた人々や、その中にいる夫や息子たちを守ろうとするが……。第77回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門出品。第93回アカデミー国際長編映画賞ノミネート。

2020年製作/101分/PG12/ボスニア・ヘルツェゴビナ・オーストリア・ルーマニア・オランダ・ドイツ・ポーランド・フランス・ノルウェー合作
原題:Quo vadis, Aida?                          映画.comより転載」

 

(ネタバレあり)

一つの国家体制が崩壊し、新しい秩序を得ることができる、それは生易しいことではなく、積み重ねられて爆発寸前まで来た民族至上主義、宗教的対立が露になり、残虐の限りを尽くす、一線を越えてしまう混沌の中に放り出されてしまったときの市民はなすすべもなく犠牲者として虐殺されていく、昨日までの隣人だった人と闘わなければならない。
この監督の前作『サラエボの花』での民族浄化、敵対する民族を崩壊させるために行われる凄惨な性暴力、それでも人は生き抜くのだ・・・この映画でもテーマが同じであろう。 

『アイダよ、何処へ?』は原題の直訳ではあるけれど、何処へ?にはクオ ヴァディスという言葉が使われている。
アイダには私たちは、という言葉が込められていて、言葉以上の深い意味があると思われる。
映画ラスト、すべてを失くしたアイダが帰るべき場所、帰った場所、その中で彼女(そういう立場になった時の私たち)は何を支えに生きるのか、どう生きるのか、我々の未来はどうあるのか、それが映画のタイトルの深さを表している。

わずか四半世紀前のボスニアで何が起こったのか?
ジェノサイドに認定されたスレブニツァ集団虐殺事件とはどういう状況だったのか。
実話を基にという映画は近年とても多いですが、これぞ実話という圧倒されるものがあります。

フライヤーから転載
〔ボスニア紛争とは〕ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴヴィナで1992年~95年まで続いた紛争。ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族による戦闘の結果、人口435万人のうち、死者20万人、難民、避難民200万人が発生した。

スレブニツァがセルビア人勢力に陥落したとき、間には国連保護軍が介入していたけれど力による無法地帯となってしまった。
民族の優勢を保つためここまでやるのか、という戦争の狂気が支配している。
国連軍の無力に暗澹とした気分になる。
そして虐殺の指揮をしたラトコ・ムラディッチ将軍の終身刑が確定したのは2021年6月8日、ジェノサイドから26年も過ぎた今だ、ここには私たちにはわからない力関係が横たわっているのだろう。
死者20万というのは、お互いが加害者としてという、やられたらやり返すという状態であったのだと思う。

国連保護軍で働くアイダは安全な立場にいる、自分の力で夫と息子たちを助けたいと思うのは自然なことだし、自分ならそんなことはしないとは絶対に言えない、そうするだろう、だれも非難などできないだろう。
ただ、子供たちを「どちらか一人だけでも助けてほしい」という言葉には違和感を感じた、母として言うだろうか?(実話を背景にですが、フィクションとして作られた人物ですから)。
つい最近『ソフィーの選択』を再鑑賞した、”どちらか一人だけ”その選択に打ち砕かれた人生。
例えば、母として、その場にあって、私がその言葉を言うか?と考えれば、絶対に、ない。
大重量の力作だけれど、この一点にはこだわらずにいられない。


アカデミー賞国際長編映画賞ノミネート作ですが、受賞は『アナザーラウンド』、これは納得できないな~、マッツ・ミケルセンのダンスがマッツファンには見逃せないのですが、それ以外は本作とは比べようもないように思うのですが。