人生って無意味。
って思う時がある。
2012年、5月末日・・・またしても、親に捨てられてしまった。
子供の頃から、何度目だっけ。
もう中年になるって言うのに、こっちは未だにPTSDで苦しむ毎日。
いい加減にしてよお。
あの親たちには、私の姿が目に映らないんだろうな。
路肩の石ころよりも、もっと目を引かない存在なんだろう。
目の前で、私が死にかけていても、何も映っていないがごとく、通り過ぎて行けるんだろう。
そうして、今度はどの温泉へ旅行へ行こうとか考えていれるんだ。
他人が親切にしてくれる。
でも、その親切を信じれなくなってしまう。
親にとって、生きてても死んでても構わない人間が、誰か他人にとって、本当に意味ある存在になんかなれるんだろうか。
単なる同情。
それとも、血に、戸籍に関係なく、他人を大事にして来たつもりの自分の気持ちが、私を誰かにとって、意味ある存在にしたんだろうか?
それともやっぱり、それは幻なのかな。
どれほどの時間をかけても、永遠に親の目に、私が映らないのと同じ様に、人が人を愛するなんて、幻想に過ぎないんじゃないだろうか。
色彩のない世界。
何故私は絵を描く事を、色をつけるよりも輪郭ばかりにこだわっていたのか、何か特別な理由でもあるんだろうか。
自分の犬や猫を、愛撫しながらたずねてみる。
ねえ、親に愛されるって言うのは、どんな感じがするの?
こうやって、顔や頭を撫でられる事、抱きしめられるって言うのは、どんな気持ち?
振り向けばいつも、私がいると、安心して生きれる気持ちがあるって、どんな感覚?
分からないけどきっとそれは、空気みたいに当たり前で、蒼穹の空に抱かれる程に、心地よい安心感なんだろうな。
私が親からもらったものは、恐怖と不安。
物心ついた時からの、激しい暴力。
心を切り裂く言葉のナイフ。
あの頃は、体も心ももう、傷まみれで、傷がない場所などどこにもなくて、新しい傷は、残せる場所がなくって、古い傷の上に刻まれて行ったんだ。
常に心から、血が吹き出していた。
やるせないね。
殴られ、蹴られてまともに歩けなかったり、
持病の発作で苦しんでたり、
小さな子供がノイローゼになって叫んでいた時、
あの人達は、見ない振りをするか、そんな私を見て喜んでいた。
線香は苦手。
祖母に苛められたから。
幼い時、火のついた線香を、二回、左手の甲に押し付けられた事がある。
一回目、火のついた線香が、祖母の手で押さえつけられた私の手に近づいて来る時、発狂しそうな恐怖を体験した。
ああ、その時の事を書こうとすると、手が今でも震えてしまう。
昔のように、原稿用紙に文字を綴ったなら、きっと文字は震えているだろう。
線香の火は、皮膚を溶かす。
焼くんじゃなくて、溶かしてしまう。
するっと、綺麗に皮膚の中に入って行く。
何の抵抗もなく。
そしてジュッて音がして、体液が線香の火を消す。
私の手の中で。
痛みよりも数倍強い、恐怖の時間が終わった後は、
線香が私の手の中から引き抜かれ、呆然としながらその後を見ると、
手には線香が突っ込まれた分の、小さな穴が空いていて、その周囲に、傷の外側に、
線香の灰が白く点々としながら残っている。
あの、恐怖の時間が終わって、茫然自失となっている姿は、
さながら男に陵辱された後の、女の姿。
足に大怪我を負って、筋と神経が切れてしまい、リハビリの一環で、鍼灸を受けた時は驚いた。
お灸って、もぐさを盛って、その上に、何と線香で火を点けるんだもの。
あの虐待から、30年も経ったって言うのに、火のついた線香を近づけられた瞬間、
悲鳴を上げてしまった。
代わりに、ライターで火をつける羽目に、先生はなってしまった。
古い傷跡。
なのに生きている。
過去。
終わった時間。
なのに目の前に気付けばある。
何故、過去は過去へと消えて行ってくれないんだろう。
何故、こうもまざまざと、今起きた事の様に、私を苦しめるんだろう。
虐待に加担した人間達。
ある者は死に、ある者は所在不明。
恐怖だけが、いつまでも残る。
ああ。
墓を掘り起こすんじゃなかった。
私の親・・・。親?
私の人生では、とっくに死んだ事にさせていたのに。
そう、私の頭の中では、彼らの葬式だって終えたのに。
もう、墓に閉じ込めて二度と振り向かないはずだったのに。
どうして、もう一度だけ、自分を愛してくれないかどうかと、試してみたくなったんだろう。
家族愛を知らずに育った子供は、大人になってもこうやって、元いた場所に戻って来てしまうんだろうか。
まるで、樹海の中を彷徨い続けているみたい。
自分の意思では、真っ直ぐ前へ、前へ、と進んでいるつもりなのに、
方位磁石が壊れた人生を持つと、何故か必ず、前へ向かって選んで歩いているはずの道は、
過去へと知らずに向かっているのよ。
そうして何度も、自分が破壊された場所へ戻るんだ。
まるで、犬の帰巣本能でも備わっているみたいに。
何の努力もしなくても、ここには確実に帰って来れるのよ。
螺旋ではなく、円を描く私の人生。
進んでも進んでも、辿り着くのは、出発点。
いつか、この閉ざされた時間から、解放される日が来るんだろうか。
そうする為には、親には決して、最後の瞬間まで、愛を授けてもらえないと言う事を、
きっちり自覚出来ないと無理なんだろうな。
もう、遠い昔に自覚したはずの答え。
ひょっとして、間違っているんじゃないかと、無意識に。
無意識に、自分の心の隅にある、親の墓の前に立つんだ。
そうして、墓をそっと開けるのよ。
もしかしたら、私は愛されてるんじゃないかと、その儚い希望を断ち切れなくて。
すると、亡霊が再び現れ、そんな私を嘲笑う様に、もっと深い傷をあたえる。
墓から自分で呼び出してしまった亡霊は、しばし消えてはくれない。
そう、簡単に、亡霊は、墓の中には戻らない。
私はしばし、再びあの苦痛の渦中で息が止まる思いを味わう。
そうして、自分がどれほど愛して欲しかったか、そしてそれが、
どれほど愚かな願いであるか、新しい傷跡が、年輪の様に古い傷跡の上に刻まれ、
やがてそれも、時を置いた傷跡になるまで苦しむのよ。
どうして子供は、こんな痛みを繰り返してまで、親の愛を求めて回るのか。
親の愛とは、そんなに甘美なものなのだろうか。
それがなくったって、人間は生きていける。
そう、生きて行くだけなら。
でも、心があると、ただ生きて行く事だけが人生ではない。
だから結局、自分の生まれた場所へ戻るんだろう。
変える事の出来ない過去。
亡霊の様に、見えても、この手で触れる事は出来ない。
なのに、その過去の前に戻っては、
自分の出生を、生い立ちを、少しでも素敵なものに手直し出来るはずだと、
まるで粘土で出来た何かを作り直せるかの様に。
繰り返し、繰り返し、この場所に戻っては、
歴史を捏造出来る様に、
自分の人生を、壊れる前に戻したいと、触れない過去に手を伸ばす。
過去の記憶を入れ替えたくて。
私は捨てられていない。
私は無視されていない。
私は虐待されていない。
私は無視されていない。
私は本当は、親や家族に、愛されて育った人間だった・・・。
そう、自分の過去を、心安らぐものに、作り変えて、大切に抱きしめたいと思ってる。
そして、過去に戻ってしまう度、
新たな傷を、また心に刻まれて行くんだ。
もう、この墓には近寄ってはだめだ。
歴史は決して変わらない。
親の心に、愛があったか、その真実を、私はどれだけ知っている事か。
真実を否定したいとごねる心。
なだめなければ、新たな傷が、また私の歴史に加えられて行く。
親にとって自分が、生きていようが死んでいようが、(親も、私は死んだものとしているはずだから、
こうしてたまに、生き返って来ると余計に迷惑なんだろう。早く本物の死体になって欲しいに違いない)
関心のない事だと、受け入れられるのに、後何年かかるんだろう。
乗り越えて来たはずの人生。
それがフラッシュバックに襲われて、PTSDが飛び出す度に、
自分は全く、あの苦しい時間の中から、進めていなかったと打ちのめされる。
本来の時空から、切り離されて、固定化してしまっている、私の時間。
螺旋にならない輪。
どこかでこの時間の輪を切って、時を上へ進ませなくは。
やって来たはずだったのに。
そう、ずっとやって来たはずだったのに。
気付けばまた、元の場所に戻ってしまってる自分を知る。
そうして、また、自分の知らなかった、自分の別の横顔を、まるで新鮮なものの様に見る。
何度も見て来た顔なのに。
ここから旅立つ度に、忘れてしまうのね。
そうしてまた、気付けば元の場所に立っていて、
親の愛を、埋めてしまったお墓の前で、何とか墓の中からそれを見つけたいと粘ってる、
自分の横顔を、自分で見るのよ。
まるで、見知らぬ他人の姿を見ているみたいな顔をして。
お母さん
お父さん
出口は一体、どこですか?











