実の所、1月の中旬から、結構酷い鬱になってました。
ま、鬱は慣れっこなので、またか・・と、思いつつ、感情が鈍るのと、だるさ、それに加えて、1月から二月まで、三週連続で丁度日曜日から三日程寝込み、
こんな調子で、あっこちゃんの応援に行けるのか、不安だったし、また、何だか自分が現地へ行く事を想像じてみても、実感沸かなかったし、喜びもなかった。
ただ、義理堅い性格なので、「一度あっこちゃんのコメント欄で公言して、約束した事だしな・・・。」と、
当日、あれこれ準備して。
お留守番させてしまう![]()
の為に、ストーブの確認、ご飯、お水、トイレ。
凡そ丸二日、留守してしまうから。
支度してた頃、丁度テレビで女子シングルのショートが始まった。
びっくりだった。
予約録画してたけど、男子フリーが先かなって思ってて、私は夜9時、家を出発の予定だったから、あっこちゃんのショートは観れないな、結果だけ、11時過ぎたら友達に聞こう、と思ってた。
それが・・・以外に早い、女子ショートの試合放送。
迷いながら支度は整ったのが、丁度9時。
でも、この頃にはもう最終グループが出て来始めてて、あっこちゃんの滑走順を計算すると、9時半近く。
道路はアイスバーンに、うっすら雪が降っている。
こういう状況が車は一番滑りやすい。
札幌まで行く、都市間長距離バスの乗り場まで、車で一時間半。
でも、道路状態を考えたら、普段より一時間早めに出たい。
でも・・・。
行こうか、それとも折角取ったチケット。
一生の思い出に、大事に取っておこうか、まだ悩んでいた。
時間は9時を回ってどんどん過ぎて行く。
行くなら、早めに出ないと、バスに乗り遅れる危険がある。
そうしたら、その後の乗り継ぎ、みんなパーにしてしまう。
そこで、私は賭ける事にした。
少々危険だけど、あっこちゃんのショートの演技を観てから、決断しよう。
一刻を争うので、荷物を玄関に置き、上着を着て、ついでに何と、底の汚れていない、ヒールのない、ロングブーツを部屋へ持ち込み、部屋の中でブーツを履いて、心が決まれば、即飛び出せる状態にした。
9時20分頃。
ようやくあっこちゃんの演技が始まった。
私はこう決めた。
もし、今日あっこちゃんが、大きなミスをしたら、私も諦めよう。
元々、行ける体調じゃないし、あらゆる意味で、無茶なんだ、と。
そして、あっこちゃんがテレビの中で、「キル・ビル」を踊りだした。
素晴らしい演技をあっこちゃんは続けていた。
やっぱり、「キル・ビル」には、あっこちゃんは苦手意識をほぼ完全になくしてる。
会場は最高の盛り上がり。
このまま、行けるかも知れない。
あっこちゃんは、魂と気迫の篭った、最高の演技をした。
彼女の演技が終わった瞬間、心を決めた。
「お母さん行って来るね!!」
私は
と
に叫んだ。
この子がしっかりやり切ったんだ。
だったら、私も明日の為に全力を尽くそう!
あっこちゃんの点数が出る前には、家を飛び出して車に乗っていた・・・・。
私は、過去に二回、観客の共鳴の力が、どんな奇跡を起こすのか、目の当たりにした事がある。
一度は、生まれて初めての、生のジャズライブの時だった。
あるホテルで行われたそのジャズライブに、私は付き合いで、参加しなければならなかった。
一緒に行く人達も、私も含めて、みんなジャズには疎い。
恐らく、会場の観客の殆どがそうだろう。
ホテルのイベントに、人が集まらず、知人から知人を呼び集め、何とか会場に50人程度が揃った、と言うライブだった。
ホテルなので、先にコースのディナーを食べて、それからジャズバンドが登場し、(日本人、外国人、入り乱れてのバンド構成だった)喫茶店などでよくかかる、古き良きアメリカを感じさせる、軽快で心地いい演奏が始まった。
観客は、全員静かに聞いている。
まるで授業でも受けてるようだ。
一曲終わると、お義理の拍手。
そんな事が、二回、三回と続いた。
しかし、初めてちゃんと聞くジャズの音楽に、私はすっかり魅了された。
ボーカルの伸びがあって自由自在に操走る声。
アップテンポでリズミカルな、初めて目の前で聞く、ジャズピアノ。
トランペットの軽快で、気持ちいい響き。
四曲目になっても、相変わらず会場は静かだった。
手拍子一つ起こらない。
しかし、音楽を聴いていると、もう、体がじっとしていられなくなる。
最初、テーブルの下で、足がリズムを取り出して、靴が床を静かに、そしてリズミカルに、音楽に合わせて動いていた。
そのうち、今度は肩が左右に動き出す。
体が音楽に合わせて、どんどんリズムを刻んで行く。
私は音痴なんだけど、リズム感だけはあって、音楽の調子を掴むのは得意だった。
手拍子を打ちたい衝動に強く駆られた。
でも、会場は静まり返ってる。
私は、ジャズの生演奏を聴いた事がない。
ジャズを生で聴く上での、お客のルールやマナーが分からない。
手を打っていいんだろうか?
それとも、静かに聴くのがルールなんだろうか?
でも、魂を揺さぶる音楽は、私の理性を駆逐した。
会場でたった一人、どんな目で見られてもいい、この音楽を楽しみたい、と思って、私はいきなり、曲に合わせて、猛烈に手拍子を打ち、足を踏み鳴らし、体ごと音楽に入り込んだ。
その瞬間、私には奇跡が起こった。
演奏をしていたジャズバンドが、全員一斉に私を見た。
そしてまずボーカルが、満面の笑みになって、私の方へ手を差し出し、それまでと比べ物にならないくらい、艶の乗った伸びやかな声で歌い始めた。
ピアノの演奏者の手が、それに合わせて猛烈な勢いになって鍵盤を弾き鳴らした。
トランペットは、体をくねらせながら、高らかに力強く、ペットを吹き始めた。
私の反応と共に、それまで控え目だった演奏が、一気に爆発をしたのだ。
もう訳が分からない。
ノッていいのか、会場は相変わらず静かなまま。
それでも、4、5人が、私に合わせて、他の観客を意識しながら、控え目に手拍子を打ち始めた。
バンドは更に勢いづいた。
結果、私はそれに乗せられ思い切り音楽に合わせてリズムを取って、バンドの全員と、アイコンタクトを交わしながら、お互いの共鳴が始まった。
それから一時間、相変わらず、殆ど動かない多数のお客をヨソに、数人の静かな応援の中、私とバンドは一体になってジャズを楽しみ抜いた。
バンドは完全に、私を引き込もうと、どんどん演奏に熱を入れて、誘って来た。
私はそれに呼応して、バンドが思うままに演奏出来る様、白けている様な、唖然としている様な周囲を無視して、手を打って、声を出して、彼らの音楽に完全に取り込まれてる事を全身で伝えた。
バンドはもう、他のお客に構っていなかった。
私の方へ、皆サインを送り、もっと盛り上がっていいぞと、手を上下させて促し、ひたすら私と、ライブを力一杯楽しんだ。
全ての演奏が終わった時、私は他の観客が見詰める中、1人立ち上がって、拍手しながらガッツポーズを取り、バンドはそれにガッツポーズで応えて来た。
最高の瞬間だった。
共鳴。
共鳴がその場を一気に変えた。
バンドが私一人の共鳴によって、一気に生き返り、歌から演奏から、全てがそれまでと、比べ物にならない位に生き生きとした、最高の演奏になった。
演奏者の心に、観客が応じる事が、こうも演奏者の力を引き出す事を、私はこの時、初めて知った。
後で、ジャズファンに聞いてみた。
ライブでの私は間違っていたかどうか。
その人はこう言った。
「お前、ジャズってもんは、足をダンダン踏み鳴らし、手を叩いて、全身で楽しむ音楽だぞ。会場が静まり返っていれば、バンドは自分達の演奏に満足していないのかと、不安になるさ。」
20年くらい前。
千葉のある乗馬クラブに私は通っていた。
昔から馬が好きで、厩務員のバイトをした事もある。
乗馬は、バイト先で習った。
正確には、先輩ではなく、馬に乗り方は教えてもらった。
乗馬と言うのは、馬と呼吸が合わないと、馬の走る振動で、背中に乗った人間は、ボコンボコンと、お尻をぶつける事になる。
馬と呼吸がぴったり合えば、馬の疾駆に合わせて自分も馬上でタイミングを合わせて動く為、宙を駆ける馬の足が着地した瞬間に、自分も馬の背中に着地するので、馬の背中でお尻が、跳ね返される事はない。
九十九里浜近くにあるホースクラブは、会員制コースと非会員コースがあって、非会員は、行った時だけ、乗馬代金を払えば良かったし、千葉の田舎のホースクラブの料金は、かなりお安い金額だった。
乗馬で、馬に乗ってホースクラブ内から、外へ出て騎乗をする事を、「外乗」と呼ぶが、その日私は、いつも乗る子(馬)が、別の人が先に乗っていたので、初めての馬に乗った。
その日の外乗は、九十九里の砂浜を、みんなで駆ける、と言うものだった。
私を乗せた馬は、余り楽しそうではなく(ぶっちゃけ、大体ホースクラブで人間に鞭を入れられながら、無理矢理走らせられる馬は、いつも不満を見せている)、
乗らない気分で走っていた。
しかし、その日はとても天気が良かったし、波打ち際では、波しぶきが、太陽の光を浴びて煌いていた。
私は自分を乗せてくれる、その馬がとても可愛かったし、愛おしさを感じた。
不満げな、その子の首筋をさすりながら、ねえ、風が気持ちいいね、楽しくない?なんて話し掛けて、彼の背中で、彼と呼吸を合わせて、波打ち際を疾駆する快感を楽しんだ。
すると、馬に突然変化が訪れた。
自分が走る事、その美しさに、私が魅了されているのを、敏感に感じ取ったその馬は、逆に今度は、自分から私と、呼吸を合わせようと、走りを変えた。
それで私は感動の余り笑い出した。
鞍の上のホーン(角。ウェスタン鞍についている)を掴み、手綱は片手で殆ど持っているだけの状態にしてたっぷり緩め、馬と、走る事を全身で楽しんだ。
すると、馬から更に、誇りが溢れて来るのを感じた。
馬は、自分が走る事、そして自分自身に魅了されている、私の感情を感じて、
自分に強い満足感と、自信を持ったのだ。
さっきまで、うっとおしそうに走っていた馬の走りに、力と優雅さが加わった。
砂浜を蹴る足の動きに、集中力が感じられた。
瞬間、私は自分の体重を全く感じなくなった。
馬も、さっきまでと違って、私の体重を、全く感じていないのが分かった。
それ所か、私は馬の上で、彼の翼になった。
彼が、背中に乗った私を、人間と言う重荷ではなく、自分の背中に着いた翼の様に、受け入れたのだ。
それは、奇跡の瞬間だった。
ダイヤモンドダストよりもっと大きな光で、急に目の前の世界が光で満ち溢れた。
風さえ光っているようだった。
私の馬への思いが、馬を感動させ、彼に生きる喜び、走る喜び、そして馬の誇りをもたらした。
そして彼は、感動の余り、私を自分の体の新たな一部。
自分の背中に生えた翼に変えたのだ。
「人馬一体」
この言葉が頭の中で聞こえてきた。
この感覚が、そうなのだ。
私を乗せれば重いはずなのに、私を乗せた彼は、まるで自分の体重さえ感じないかの如く、天駆ける様に疾走した。
共鳴の力。
もし、馬に対して横柄な人間が乗ったなら、彼の本当の走る実力は、決して出なかっただろう。
私と言う、感応者の感動を得て、彼はその走る美しさを、最大限まで、初めて引き出したのだ。
彼もまた、走る事に、それを追求した時に、芸術的な感動を感じる事を、知っていたのだろう。
風を切る時、全力で走る時、彼はその快感を知っていたはずだ。
砂地を飛ぶ様に走る、逞しい自分の足。
どんどん走りが頂点に達する瞬間を。
それを、「満足」ではなく、「感動」する人間を背中に乗せた時、彼はただの馬から、天馬になった。
私と言う騎手(と、素人が言っていいのか分からないが)がいて、彼に共鳴出来る力があって、それに彼が更なる共鳴で応えた。
観客と演奏者。
或いは演技者。
そして、走ると言う最高の芸術を持った種族の馬。
それに焦がれる人間。
両者が共鳴しあい、魂を一つにさせた時、奇跡が生まれるのを幾度も私は経験した。
あっこちゃんの場合も、必ず会場と言う現地で、声で、拍手で、彼女の演技に共鳴する観客の思いを感じたら、きっと彼女は感動を受け、恐怖よりも迷いよりも、もっと深く、演技の中に集中出来るはず。
彼女は、観客の共鳴を感じる力が絶対にある。
だから、私が会場へ行って、彼女の全てに呼応して、彼女が演技しながらイメージする世界を、ミスをしても破らせなければ、きっと彼女は、実力を爆発させる。
ファンなんだから、沢山の感動、そして次の演技の日を指折り数えて待つ喜びを、あっこちゃんから貰ったんだから、彼女が当然なるであろう、スランプに陥った時には、助けに行くのがファンの義務だ。
絶対に、支えてあげたいと思う、ファンの義務だ。
そう思って、「闘志」を熱く抱えて、私は大坂までの旅に出た。
率直に言って、フリーの「O」は、競技試合向きのプログラムじゃない。
完成度が高すぎるのだ。
確かに、あっこちゃんの才能とセンス、表現力を考えれば、最高のプログラムだが、
正直に言って、あの曲で、世界を表現しつつ、ライバルとの戦いの中で、ジャンプを確実に決めて行くと言うのは、至難の業だ。
あのプログラムは、もっとプレッシャーのかからない、エキシビジョンや、アイスショーなら、あっこちゃんも、ジャンプの少々のミスにプレッシャーを感じず、伸び伸びと、楽しんで滑れただろう。
正直、選曲をして、振付けた方は、とてつもない天才だ。
しかし、危険な賭けでもある。
あっこちゃんの精神の繊細さと、もろさだ。
前回も書いたが、彼女は氷上のアクトレス。
今季、ショートの「キル・ビル」は始め不調を見せたが、曲が激しい攻めの曲で、エンターティメント性たっぷりなので、最初のジャンプに成功すれば、観客は求めなくても、一気に湧き上がる。
それが、あっこちゃんにとって、より高い集中力、表現力に繋がる。
それ故に、ミスを起こす可能性が、演技を続けて行けば行く程、どんどん減るのだ。
既にショートは、大きな大会何度も放映されているし、それ以外のショーでも披露しているみたいなので、観客は、あの「キル・ビル」の鑑賞の楽しさを知っている。
なので、演技前から、会場は大興奮のはずだ。
あっこちゃんは、それを感じて、一層それに応えて集中出来る。
そういう意味では、非常に踊りやすい演目だと、私は思う。
なので、最初の頃で、二回のジャンプの失敗から立ち直ってからは、私はショートは殆ど心配していない。(余りそれに頼り過ぎて、安心してても、仇となるが)
反面、フリーは、本当に難しい。
音楽は、人を呑み込む荘厳な調べで、会場を盛り上がらせるより、むしろ会場を静まり返らせてしまう。
しかも、彼女が演じるのは、人間じゃない。
森の中の、美しい青い鳥だ。
彼女は終始、その荘厳な音楽が繰り広げる世界を、「青い鳥」になって表現しなければならない。
しかし、その種の表現、演技力は、彼女の真骨頂である。
青い小鳥と、静謐な森の中をリンクの上で作り出す事なら、むしろ彼女にとっては、最も青い鳥になりきって観客に魅せたい、やりがいある演技と言える。
問題は、その世界を演じている途中、途中で、「ジャンプ」と言う存在がある事だ。
得点を気にしなくていい、一回点や二回転止まりの、彼女にとっても気楽に飛べる程度のジャンプならまだいい。
三回転や、アクセルなどの、難しいジャンプがあって、試合である以上、確実にこなさねばならず、同時に、音楽の求める世界を表現しながら、演技をするのは至難の業だ。
これだけ難しいプログラムは、見た事がない。
それも、メンタル面でもろいあっこちゃんに、高度なジャンプを求めながら、彼女の天才的な表現の、両方を求めるプログラム。
「ガラスの仮面」と、言う少女漫画を知っているだろうか。
私の子供時代から始まって、今も連載されているが、一人の、一見地味で、不遇な環境で育っていた、自分の才能を知らない演技の天才少女が、引退した伝説の女優に見出され、女優として次々と、難しい役を練習し、舞台を感動の渦で巻き込んで行く物語である。
タイトルの「ガラスの仮面」は、演技をするものは、常に自分以外のものの心になり切らねばならず、心の中で、演じる役の「仮面」をつけるのだが、その仮面は、ちょっとした失敗、集中力の欠如から、あっと言う間に壊れてしまう所から、
「ガラスの仮面」、と作者が考えた。
実際、演じると言うのはこの通りなのだ。
「キル・ビル」の様に、ノリのいい演技では、観客が盛り上がる為に、あっこちゃんは「強く逞しく、かっこいい女性」の役に入り込み、万一多少の失敗があっても、観客がその次の演技を待っているので、集中力が途切れない。
かなり屈強な仮面と言える。
反面、「O」の仮面こそは、「ガラスの仮面」だ。
演じるのは鳥。
舞台装置も何もない所で、自分の表情や動きだけで、彼女は鳥になるだけでなく、そこに静かで静謐な森と、湖、泉、もしくは美しい川の、いずれかの水場さえ、観客に見せなくてはならない。
青い鳥が舞う、舞台まで作り上げなくては、観客が引き込まれ、感動出来ない、恐ろしく難しいプログラムになっている。
振り返ってみれば、昨シーズンのフリーの「こうもり」の方が、これに比べれば、余程踊りやすかったのではないかと、思えてならない。
そして、前編で書いた通り、あっこちゃんは普通の選手の何倍もプレッシャーに弱い。
この曲は、ショートのように、観客が盛り上がり、あっこちゃんと一緒に演技を楽しむ構成ではなく、ひたすら会場はあっこちゃんの「出来次第」で、どんどん感動し、感動すればするほど、静かになって行って、言葉を失ってしまう程、美しいプログラムなので、ショートの様に、ジャンプのミスがあった場合、「応援」や、会場の力を借りれない。
ジャンプでミスして、彼女が動揺してしまうと、、このプログラムは滅茶苦茶になってしまう。
何故なら、観客の静まり返った空気の中、ミスを引きずらず、「O」の世界に戻るのは、殆ど不可能に近いからだ。
ミスで、仮面は簡単に壊れる。
それは、余りに音楽が難度でプログラムの出来がいい為、会場が期待を込めて、静かに呑み込まれ過ぎてしまえば、動揺した精神状態からの復活が難しい。
荘厳な音楽と、息を呑んで見守る観客の空気が仇となる。
それが、余計に彼女を、焦りに追い立て、建て直しが効かなくなってしまう。
カナダ杯、NHK杯では、ショートのミスが、逆に彼女にとって、この難しいフリーに、プレッシャーを感じず、結果、最高の演技を見せられたと思う。
しかし、ショートに成功した後ほど、この超難度のプログラムは何倍ものプレッシャーになると、私は思う。
プログラム自体が難しい上に、ショートで1位や2位になっていれば、このフリーを完成させれば、表彰台の、真ん中に上がれるのは、(浅田選手が、トリプルアクセルを飛ばない前提には、なってしまうが。フィギュアは採点制だから)
殆ど確実なので、繊細なあっこちゃんに取って、これ以上のプレッシャーはないと感じてしまう。
だからこそ、このプログラムを成功させる為には、ファンの力が不可欠だと、私は思うのだ。
文章が長くなって来たので、前・後編から変えて、前編・中篇・後編構成にするが、
会場で、あっこちゃんの作る「O」の世界を、如何にファンが率先して守るか。
あっこちゃんがミスをしても、すぐに元の集中力に戻れる様に、ファンが始めから、会場で自分達が、青い小鳥の舞う、舞台装置の空気を、作り上げて守れるか、それに、全てがかかっている気がしてならない。
あっこちゃんの演じる、「青い小鳥」を、観ているファンと、観客が、最後まで信じる事。
本当の小鳥なら、あり得ない、「飛ぶ」事の失敗。
その時、ガラスの仮面が壊れ、一瞬、人間「鈴木明子」に戻ったとしても、会場全体が、彼女の最初の鳥の演技で、そのまま魅了された状態を作れば、「鈴木明子」は、苦もなく、再びガラスの仮面を取り戻す。
一度の失敗で、会場が、「役者ー(この場合は、アクトレスである、あっこちゃん)」の仮面がはがれた事に気がつかなければ、その瞬間から、彼女は無敵になる。
音楽の世界に入り込み、素晴らしい青い鳥になって、湖か、はたまた清流かー、森に囲まれた、水の上で羽ばたき、舞い、生命力を爆発させる。
そうすれば、ジャンプにも、強気で臨める。
ショート同様、会場の空気が一体となって、皆で「O」の世界を、歓喜を持って賛美すれば、彼女はジャンプを怖がらないし、四大陸での3サルコウの時の様に、バランスを崩しても転倒しないで、立ち直れる。
観客が、彼女に「演じ切る」、そして、「ジャンプも飛べるんだ」と言う、強い意思を与えるのだ。
私の四大陸奮闘記は、後編に書かせて頂くとするが、
いやはや。
つくづく思うが、このプログラムを作った人は、天才だが、これを競技試合で、仕掛けて来たあっこちゃんとコーチには、脱帽する。
不可能を、可能にすると言うものではないか。
One for All , All for One !!
続く
追記: 後で読み返したら、うーん、自分の記事、角度変えて読んだら、あっこちゃんや、長久保コーチに対して、「こんな、難度の高いプログラム、何で止めなかったの!?」
なんて言っちゃってるみたいなもので、フォロー入れときます。![]()
文章もちょっと訂正しました。
ここまで惚れ込むプログラムじゃなかったら、大嫌いな金銭の貸し借りまでして、真冬の北海道で、子供を置いて、フィギュアの生観戦なんて、絶対行かなかったのは、間違いない![]()
そして、世界選手権でも、このフリーがファンに支えられて、あっこちゃんに最高のパフォーマンスをして貰えるよう、心から願って、四大陸の、奮闘記を書いております。![]()
・・・フォロー、なったかな?![]()