さてさて。
伸び伸びになってしまったこの連載。
私の体調不良が続き、折角読んで頂いた皆様には大変お待たせしてしまってる内に、あっこちゃんの、新しいシーズンが始まってしまい、とうとう、あっこちゃんの(物投げられそう)![]()
オリンピック![]()
(許して下さい、他のスケーターも愛する皆様。私はあっこちゃんしか←そろそろ我ながら悪意を自覚してしまう。お目々の中にないのですう。
ガン泣)

しかし、これだけ国別対抗戦から遠ざかって、あの日の事を書こうとすると、記憶はうろ覚えにならざるを得ない。
ぶっ倒れる前に書いた3っつの連載を読むと、忘れていた事が改めて気付いたり、思い出されたり、やっぱり日記って、その日の内に、書かなきゃ記憶が、どんどん形を変えて行く事に気付かされる・・・。
とは言え、後少しだ。
頑張りましょう。
私の2013国別対抗戦観戦日記。
あっこちゃんの、新シーズン幕開けに後遅れを取らぬ様に。
さて、心はあの日の、代々木体育館に帰る・・。
あの日。
あっこちゃんが、「0」を滑り切った時。
やっと、納得行く得点が出た。
本当はNHK杯の時、出てて当然の得点だった。
スケート連盟の思惑はどうあれ、とうとう、ジャッジが正しく評価せざるを得ない得点を、あっこちゃんは、勝ち取ったのだ。
その後、ああ、代々木まで応援に来て、本当に良かったと、幸福の極みにいた私。
会場は、ライトが最小限に消されて、スケートリンクの上で、赤い絨毯がまるで着物の帯の様に、
白い氷上に伸びて行く。
表彰式の準備が始まった。
カメラは、選手達が出ないその間、会場のお客達を、次々、クローズアップして、場内のモニターに映して行く。
それを見ながら、会場がちょっとざわめく。
仕事から見事逃げ切って来た私。
間違ってもカメラに映るオチを作ってはいけないが、こんな映像が、テレビで流れる訳もないのは、四大陸の時で十分分かっているので、カメラの動きを気にせず過ごせる。
カメラはその日、小さい子連れのお母さんー特に子供ーを、選んでアップしては、モニターに流していた。
さあ、ここで我らが愛しの、爆弾娘、大はしゃぎ。
ねっ、ねっ、カメラこっち向かないかな。
映りたいなー、映して欲しいなー、今どっち向いてんだろ、ねー、カメラどこー?
の、騒音にも、笑顔で聞き流せちゃう、今の私。
一体、今の私を怒らせられる者が、地球上にいるのだろうか?
我が、愛しのあっこちゃんが、199点台をマークしたのだぞ?
満足・ハイになった私の耳に、爆弾娘の、あの疑問の訴えが、再び耳にガンガンと響いた。
ねー、表彰式の準備してるよねー、リード姉弟は?まだやってないよね~。
そーーーーーっすね。
まだやってないっすね。
「今日」は。
頭をドッカーーンと
殴られた様な気がして、思わず満面の笑顔のまま、頭が横にぶっ倒れてしまう。
様は、頭が90度横を向いているが、私の笑顔は誰にも奪えないのだ。
そして・・・・。
今や、私は仏である。

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この世に何の執着や未練があるだろう。←酔い過ぎ?![]()
演技は全て終わったのである。
で、なければ何ゆえに、国別対抗戦(ナット、コジンプレーイ)の、表彰式が、行われなければならないのだね?![]()

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今はただ、愛しのあっこちゃんが、最高の笑顔を見せてくれた事、それだけで心は涅槃の境地へ行ってしまった私は、まるで菩薩も裸足で逃げ出すかの様な、満面の笑みを湛えて、後ろに控える、お嬢様を振り返り、ジュリー・アンドリュースも、靴脱いで逃げ出す、天使の声でこう語った。
「リード姉弟の演技は、昨日終わったのよ。」
にっこり・・・・・。
嗚呼。
幸福は遍く人々に、限りない親切心と、思いやりとなって、それを広く分かち合おうと惜しみなく噴き出す、慈愛の泉。
思えばこのお嬢さんには、あれやこれも言われた。
我ながら心失う程、不快に感じた言葉もあった。
日本が、銃規制されている国で、本当に良かったと、つくづく思う。
ショットガンを、一般人が、普通に家庭のクローゼットの中に仕舞って於ける様な、アメリカの様な国であったなら、私は迂闊にも、この会場にそれを携帯し、尊い人命を奪ってしまっていたかも知れないではないか。
全米ライフル協会よ。私の経験を元に、そろそろマジでこの世から消えてなくなれ。
全世界の人類から、「知能指数が地球で一番低い人達の集団」と、呼ばれている事に、いつになったら気が着いてくれるのだろう。
ブラックユーモア、ドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーアも、思えば苦難のブラック・ピープル。バラク・オバマ氏が、合衆国の大統領になってから、メガホンとペンを置き、遂に得た平和の一筋の光に、身を安らいでいるではないか。
私とて、今は仏にならずにはいられない。
過去のこの、お嬢さんの極めて遺憾極まる態度は、全て君の様に、芸術の舞いの何たるかを、知らない人間を悪戯に芸術競技に引き入れた、マスコミと、群集心理を操る事に長けた、不快な大企業の阿呆のせいにするとしよう。
事実だしね・・・・。
そして、自分の席より、一つリンクに近い席に座している、大人の(←自己評価につき、他人様に同意を求めるものではない)女性から、何と、期待して待っていた、リード姉弟のアイスダンスの競技は、昨日の内に終わっていたと告げられた憐れな少女は、想像を打ち破り、何とも可愛らしい声で、こう言った。
「ええ?昨日、終わっちゃたんですか??」
何と、可愛い声が出せるではないか。
裏声と言ったらいいのか、隠し声と言ったらいいのか、実に先ほど迄の、耳から脳裏を逆撫でする、不快なダミ声の持ち主とも思えない。
勿論、走れば揺れる程に、贅沢な肉をまとった体を隠す、ピンクのセーターに、豹柄のプリーツスカートに、スニーカーと言った出で立ちの、お嬢さんとも思えない。
極々普通の、可愛い女子高校生の声なのである。
おばさんから、老婆心で申し上げるが、君は将来、常にその「出せれば出せる」、可愛い声を、地声として、頑張って表に出して行くと、きっと色んな面で、得をする。
案外な、その可愛い声に、私は一層笑みをほころばせ、
「ええ、昨日ね、リード姉弟の演技は終わったの。とってもいい演技で、日本チームの得点に貢献してくれたのよ。」
と、菩薩の様に答えた。
そうだったんですかー、と、素直で可愛らしい声が返って来る。
私はにっこり笑って、眼下のスケートリンクに視線を戻し、愛するあっこちゃんが、晴れやかにリンクに出て来るのを待った。
生憎と、優勝はチーム・アメリカに輝いてしまったけれども、高橋成美ちゃん(この子、実はあっこちゃんに次いで好き
)の、ペアを欠いた日本としては、2位のカナダに引けを取らない点数で締めくくり、何よりも、何よりも、あっこちゃんが女子シングル1位になった事で、十分私としては、最高の結果となったのである。
すいません、お客様、ビン等の割れ物を、投げ込まれては困ります。
表彰式を見届けて、さて、この後、地元東京の幼馴染と、お酒の約束があったと、慌てて代々木体育館を後にした。
随分と暫くぶりの、原宿の駅。
昔から、殆ど変わっていない、小さな駅だ。
その昔、「原宿」の名が着いた様に、昔はここはただの原っぱだったと、子供の時に伯母から聞いた。
竹下通りの混雑も介さず、大きなショッピングセンターを構えた駅に変えないのは、どこかに往時の意地があるのか、近代化に最も近い駅が、時代の波に立ち向かう姿は愛おしい。
山の手線の、品川方面のホームへ向かう途中、「シルク・ドゥ・ソレイユ」の、「0」と言う曲について、はたと閃くものがあった。
普通、英語では「オー」は、「OH」と、書かれるべきである。
では、何ゆえあの「0」は、「オー」と言う言葉でありながら、「H」を、用いらなかったのだろう。
「0」一文字では、ただの、丸、円の記号みたいではないか。
ふと、作曲者は、それを感じて欲しかったのではないかと感じる。
「0」と言う曲の世界、それは、無から生まれ、無に還る、大自然の宿命と、その中で生きる歓び、苦しみを、全身で味わう事を、音に託して訴えている気がしてならない。
明子ちゃんの、青い小鳥の演舞から、それを何もかも感じたではないか。
全ては、月光の様に、光の線が弓となり、満ちて円環を成しては、また光の弓、そして一筋の光に戻って行く様に、我々は円環が作られては新しく生まれる世界の中で生きている。
春夏秋冬。
一年が季節を持って巡り、また新しい時を迎える様に。
してみれば、「0」と言う曲の題名は、その自然の理を、悟った者が、円環を称え、アルファベットの「0」と言う、円に最も近い文字を使って人々に、それを伝えたかったのではないか。
少なくとも、フィギュア・スケーター、鈴木明子嬢の感性と才能によって現れた「0」の世界は、それを確かに伝えてくれた。
考え過ぎかも知れない。
しかし、こういうロマンに溢れた発想は、人の感性をも豊かにし、世界をこの上なく感動に溢れたものと、信じさせてくれる力がある。
我々は、科学や現実主義の目に曝され過ぎず、もっと情緒豊かに、ロマンを持って生きる方が幸せだ。
幼い頃、月には本当に兎たちが住んでいて、杵と臼で、お餅をついている所を、一目見たいと、満月の度に、双眼鏡を目に当てて、間近に見える月の中、兎の姿を追い求めた時は、月面を、人が歩く姿を見るよりも、ときめいたのではなかったか。
はたまた、日本の昔話、「かぐや姫」を読んでからは、十二単衣に身を包んだ、流れる様な黒髪を持つお姫様が、どんな雲に乗って、あの月の世界へ帰ったのだろうと、本気で信じている時の方が、月のクレーターを見るよりも、素晴らしい心地に私を導いてくれたものだ。
そうだ。
こういう神秘な想像は、真実を探す事なく、大切に信じていた方がいい。
もしも私に子供がいたら、お月様を指して、あそこに住む、兎の姿を探してごらん、と言う事だろう。
いつか、その子が、月に兎はいないと知る事になっても、束の間、子供は、大人の作った、罪のない、優しい虚構の世界の中で、ロマン溢れる冒険の心を味わえる。
中世のドイツの世界を愛する、沖島博美と言う作家も言っているではないか。
現代の高度な研究結果は、ときには中世のロマンをかき消してしまう、と。
彼女はこうも続けている。
「城塞研究家たちはどうかあまり科学的に考えないで欲しい。私はディルスベルクのマンテルマウアーのあたりに、今日でもかわいそうなローゼの亡霊が毎晩出ているのではないかと思っている。」 (「ドイツ・古城街道旅物語」沖島博美・文 一志敦子・絵 東京書籍刊より)
鈴木明子嬢演じた、シルク・ドゥ・ソレイユ「0」は、そんなロマンを抱かせるほど、素晴らしいプログラムだった。
折角持ち得たロマンは、壊れないように大事に持っておくのが、むしろ賢人の振る舞いと言うべきもの。
「0」は、円環の中で現れる世界を、表現する題名として、円環を示せるアルファベットの一文字に、それを託したのだ。
そんな素敵なロマンを、私は信じている。
明子嬢に捧げる。
(←何か違う??
(←しつこく、違う)いきなり、掛け声変更唐突にして、 





←「文句あっか」の、顔。
