malta執持録2026-4-22

 

(丸田和夫:随與録.根源的生命.その窮極的真実に生きる、文芸社セレクション、2026)

 

子どもの頃に身に付いた習慣は、大人になっても、どこかに残っている。

箸の持ち方や、靴の揃え方。

物を扱う手つきや、戸の開け閉めの仕方。

そうした所作のひとつひとつは、教えられたというよりも、いつのまにか身の内に染み込んでいる。

 

夜、眠りにつく前に、翌朝に着る服を重ねて枕元に置く。

ただそれだけのことが、後になって思いがけず役に立つことがあった。

狭いテントや山小屋、あるいは避難所のような場所で、静かに着替えるとき、その習慣は迷いなく手を動かしてくれる。

 

幼い頃には、口うるさく感じられた教えも、振り返れば、どれも生きるための用意であったのかもしれない。

無言のまま、ふと手元を正された記憶がある。

そのときの気まずさも、いまではどこか温度を帯びて残っている。

 

年を重ねるにつれて、そうした所作は、自然と身体に馴染んでいく。

そして気がつけば、それを教えた人の齢に、いつのまにか自分も近づいている。

けれども、どれほど用意を重ねても、なお届かないものがある。

 

子どもの頃には、まだ知らされない不用意がある。

それが、死である。

死は、あらかじめ身支度を整えて迎えるものとは限らない。

ある日、ふいに、その縁に触れることもあるのだろう。

日々を過ごしているかぎり、それは遠くにあるようでいて、実のところ、どこまで近いのかは誰にもわからない。

気づかぬうちに、すぐそばに立っているのかもしれない。

 

それでも人は、生きているあいだに、何かしらの用意をしようとする。

目に見えるものではなく、言葉にもなりきらない、かすかな備えのようなものを。

死の先のことは、誰も確かに知ることはできない。

それでも、はるか昔から、人はその先を思い描き、語り続けてきた。

 

名づけられた場所に、安らぎを見ようとする心もまた、

生きている側の、ひとつの用意なのかもしれない。

そして、その用意が、ほんとうに届くのかどうかは、

いまも、だれにもわからない。

ただ、その安らぎに安心するだけである。

 

補遺

 

(丸田和夫:我が人生の帰趨.kindle版、幻冬舎、2025)

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