malta執持録2026-5-31

(丸田和夫:随與録.根源的生命.その窮極的真実に生きる、文芸社セレクション、2026)

 

私たちはつい、「何を成したか」で人生を測ろうとする。

しかし自然界を見渡せば、生命は必ずしも前へ前へと進むことで生き残ってきたわけではない。

動かず、争わず、ただ生き延びる。

そんな在り方もまた、数十億年にわたる生命進化の中で磨かれてきた確かな生命方略の一つなのではないだろうか。

 

自然界においては、生きて存(あ)ること、すなわち生存そのものが、生物が過酷な環境を生き抜き、次世代へ命を繋ぐための最も根本的な生命方略なのかもしれない。

 

生命には、常に変化する外部環境に適応しながら、体内の状態を一定に保とうとする恒常性(ホメオスタシス)の働きがある。何もしていないように見えても、細胞レベルでは絶えずエネルギーが消費され、損傷は修復され、生命活動は休みなく続いている。

つまり、「ただ生きている」という状態そのものが、生命にとっては極めて能動的な営みなのである。

 

生命方略とは、必ずしも積極的に動き回ることだけを意味しない。環境が厳しければ厳しいほど、「そこで生き延びる」ことの価値は大きくなる。

 

近年、動物園でも人気を集めるハシビロコウは、その象徴のような存在である。彼らは無駄な動きを極力抑え、獲物が現れる瞬間までじっと待ち続ける。動かないことによって生存確率を高めるのである。

自然界には、このような「待つ生命」「耐える生命」が数多く存在している。環境が変わるまで生き残ってさえいれば、やがて繁栄の機会は巡ってくる。

進化の歴史を振り返っても、すべての個体が効率的で活動的である必要はなかったはずだ。目立つ成果を上げなくとも、ただそこに生きて存在していることによって、種の多様性や生態系の複雑さを支えてきた生命は少なくない。

 

そんなことを考えていた折、元断酒会の仲間だった人から一通のメールが届いた。

「一日断酒」と、ときおりの例会出席は今も続けているという。

そして近頃、「生きている証が欲しい」と願う心そのものについて考えるようになったとも書かれていた。

生きている証は、自ら残そうとして残るものではない。後の世の人が、振り返って初めて見いだすものではないか。

語り継がれようが、忘れ去られようが、それはどうでもよいことだ。

ただ毎日、顔と手が真っ黒になるほど書き続ける。まだ満足のいく一枚は書けていないが、それでも一日一日、「生きて為す」日々が過ぎていく。

 

どこかで聞いたことのある言葉だと思った。某病院のアルコール病棟で耳にした実存的な作業療法の言葉だったかもしれない。

流石だと思った。

 

しかし私には、そこまでの境地はない。

私はただ、一日一日、「生きて存る」ことそのものに静かな喜びを感じている。

社会的存在である人間は、「生きて何かを為す」ことを重んじる。

それはそれで尊い。

だが、「生きて存る」こともまた、一つの生命方略ではないだろうか。

 

成果を残す者がいてよいように、静かに在る者がいてもよい。

花を咲かせる生命があれば、次の季節を待つ生命があってもよい。

生存学が問い続けているのも、突き詰めれば、そのような生き方の多様性なのかもしれない。

 

生きて為す人を讃える社会だけでなく、生きて存る人にも静かな居場所のある社会。

私はそんな社会に、生命の成熟を見るのである。

補遺

(丸田和夫:我が人生の帰趨.kindle版、幻冬舎、2025)

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