malta執持録2026-10-25

(丸田和夫:だちゃかん――百二歳の父が遺したことば.kindle版、幻冬舎、2026年8月

31日)

「老いもまた慶ばしからずや」102歳まで生きた父の言葉。古希を過ぎた私には、その意味が分からなくて……|ゴールドライフオンライン

丸田和夫|著者インタビュー|幻冬舎ルネッサンス | 自費出版の幻冬舎ルネッサンス

 

人生は、思いどおりにはなりません。

そんなことを、改めて教えられたような夕暮れがありました。

 

能登の志賀の郷の高台から眺めた、日本海の夕焼けである。

秋の凪に、海は鏡のように静まり返っていた。水平線へ沈みゆく太陽は黄白に輝き、その周囲の空と海だけが、鮮やかな朱に染まっている。

 

その情景を眺めているうちに、ふと、童謡の一節が浮かんできた。

「まっかっかっか 空の雲 みんなのお顔も まっかっか」

不思議なものだ。夕焼けは、太陽そのものよりも、その光を受けた空や雲を赤く染める。

そして、その夕景の中で何より印象に残ったのは、海を見下ろす斜面に立つ二本の老木だった。

逆光の中に浮かぶ黒い影。その姿は、杖をついて立つ自分自身にも見えた。

 

若い頃には、私にも「我が世の春」と呼べる時期があった。しかし、歳を重ねるにつれ、人生とはむしろ「世に我の秋」であることの方が自然なのだと思うようになった。

黄白に輝く太陽を見つめながら、これまで歩んできた人生を振り返る。

 

二十代で臨床の道に入った頃、私は「できるだけ白衣を黒く染めまい」と心に誓っていた。

幸い、真っ黒にはならなかった。しかし、気がつけば、ずいぶん灰色がかってしまったようにも思う。

けれども、その灰色は、決して悪いものではなかった。

白か黒かでは割り切れない現実がある。善意が必ずしも善い結果を生むとは限らず、正しいと思っていたことが、別の立場から見れば違っていることもある。

人も世の中も、思っていたほど単純ではない。

そのことを、臨床の現場で人の命と向き合いながら、少しずつ教えられてきたのだと思う。

 

人生には「我が世の春」もあれば、「世に我の秋」もある。

春には春の喜びがあり、秋には秋になって初めて見えてくるものがある。大切なのは、どちらか一方にとどまろうとするのではなく、その時々の自分を、そのまま引き受けていくことなのかもしれない。

 

病になりたくなくても病になり、老いたくなくても老いていく。

善い人間でありたいと思いながら過ちを犯し、大切な人に裏切られることもあれば、苦手だった人に救われることもある。

自分の思いどおりにならないことばかりである。

それでも私たちは、自分というものを確かな存在として捉え、自分の意志で人生を切り開いていこうとする。

 

けれども、歳を重ねるにつれて、私という存在も、決して私の思いどおりにはならないのだと気づかされる。

あの夕景に浮かんでいた影法師のように。

影法師には、確かに形がある。しかし、それ自体が独立した実体を持っているわけではない。光の向きによって伸びたり縮んだりし、立つ場所が変われば、その姿も変わる。そして、いつかは見えなくなる。

 

私たちの身も心も、どこか似ているのではないだろうか。

これこそが自分だと思っていたものも、出会う人や時代、置かれた境遇によって、少しずつ姿を変えていく。

そうであるなら、自分を一つの確かな形に閉じ込める必要もないのだろう。

思いどおりにならない自分を責めず、変わりゆく自分を無理に引き戻そうともせず、ただ、その時々の自分を受け入れてみる。

 

影法師のような存在であることを認めたとき、私たちは、自分自身へのこだわりから、ほんの少し自由になれるのかもしれない。

人生の秋が深まり、やがて夕焼けの太陽も水平線の彼方へ沈んでいく。

 

その光景を見ながら、私は思った。

人の一生には終わりがある。しかし、私たちが自分のものだと思い込んでいる「命」は、そもそも、私一人の所有物だったのだろうか。

この身を生かしてきた命。その根源に思いを馳せるとき、私という一人の人間の生涯だけでは捉えきれない何かが、そこにはあるように思われる。

 

能登の日本海に沈みゆく夕日。

その光を受けて、静かに立つ二本の老木。

あのとき、私は自分の人生の秋を見つめていたのだろうか。それとも、ただ、夕暮れの光の中に浮かぶ影法師を眺めていただけなのだろうか。

今となっては、よく分からない。

ただ、あの夕景は、今も私の心の中に静かに残っています。

補遺

(丸田和夫:我が人生の帰趨.kindle版、幻冬舎、2025)

https://renaissance-media.jp/category/gr1484

 

 

(丸田和夫:随與録.根源的生命.その窮極的真実に生きる、文芸社セレクション、2026年2月)Kindle版 (電子書籍)2026年8月より