牧野富太郎が「潮来節」の歌詞は実態と合わないと述べているのだが、本人も「野暮てんなこと」と認めているものの、その述べるところは面白い。

すなわち、

 潮来出島のまことの中に
  あやめ咲くとはしおらしい


という詞の部分について「実際から観察して批評するとしたら」という仮定のもとに

 これ(あやめ)は陸草で、決して水草のマコモと交って、水中に生えてはいない

という。

ところが「昔のアヤメ」というのは今日のショウブのことだそうで、これなら水草である。

ところが、

 このショウブの花は一向に目立たないもので、素人にはどこに花が咲いているのか分からないほどのものである。

という。

そして牧野は、

 これがもしカキツバタなら、これは水に生えているから何の問題も起らない

のではあるが、それでは口調が合わない。だから同類のアヤメとしたと考えたいが

 これはこの謡に強いて同情した考え

であると述べる。

では、「昔のアヤメ」と解すればどうかといえば、

 このショウブの花は少しもしおらしいなどというものではなく、まことにつまらぬけちな花だ

とケチをつけている。


私は牧野富太郎の名前は知っていたが、前のNHKのドラマは見ていない。ドラマで見る気はなかったが、ちょっと彼の文章を見てみると、なかなか面白いことを書いている。

* 引用は牧野富太郎『わが植物愛の記』(河出文庫、2022)からのもの。

* 「潮来節」ではないが、なぜか「昭和枯れすすき」を思い出してしまった。(笑)