花房さん。長い長い戯言ですが話をさせてください。
わたし、18年間ひとりの男に目くらになっておりました。
出逢ったのだって、恋を初めてしたような若い時分じゃあありません。結婚も、出産も離婚も、子供との別れも経験したいい年した女が出会ったのです。
一人だったから寂しかったのとも違って、男が魅力的だったかというというほどでもなかったように思います。
体の相性だけが良かったのではないかと思われそうですが、別れた亭主の方がよほど上手だったくらいです。
ではその男のどこがそんなに良かったのか、不思議でしょう。ほんとうにわかりませんもの。言葉では説明できませんし、そもそもそれほどいいところがあったのかどうかもわかりません。
嘘の多い男でした。
結論から言って、男だという性別以外はすべて嘘であったというような出鱈目な男でした。
うまいこと言ってお金をせびるわけでもない。明らかな作り話の集りです。それでもうれしそうに助かるよといって見せる笑顔ほしさに、一万、二万と渡し、総額は数百万になっておりました。時々はかえってくるんですが、ご想像どおりそのほとんどがかえってはきませんでした。
女もたくさん見え隠れしました。
同棲していた時期は、男のかばんの中にうその名刺が入っており、その嘘の肩書きと妙な口のきき方にでも引き寄せられた女たちがいれかわり立ち替わりしておりました。
わたしのことは、ねえさまと呼んでおり、女の何人かには障害のある実の姉だと言っておった様子です。
喧嘩でしょうか。喧嘩になんてなりません。
まさに、馬耳東風。暖簾に腕押しです。わたしがひとり、ヒステリックに暴れたり自傷行為で関心を引き話を聴いてもらおうとしたところで、なんにもなりゃしません。
なぜはなれられなかったのか。
暴力があれば、離れられない依存関係にもなりやすいんでしょうけれど、特に大きな暴力・暴言があった記憶はないんです。
平手打ちも経験ありません。
わたしが責めると、悲しそうな顔をして黙りこむか、どこかへすいと消えてしまう。わかれようとも言いません。
この男に婚姻関係の女がいることも、こういう関係になって10年たって初めて知ったのです。
男の奥様は一体どういうつもりなのか、不思議です。
失踪したと思い込んでいるのか、それとも死んだと思っているのか、それともほかの理解しがたい価値観でもって別れずに籍をそのままにしているのか。
何度も考えました。
奥様は、馬鹿なんじゃないかと。お金もない、子供がいるでもない、なのになぜ自由にならないのか。
でもそれはわたしにも当てはまることですよね。
それに子供がいないというのも、それからさらにずっとあとで嘘だと判明したんです。どうしようもないですね。
なのに、それからさらに3年もの間わたし男のために食事を作って待っていたんです。
馬鹿はわたしですね。
男は悪びれるでもなく、わたしの食事を食べたり食べなかったり。そう、かえってきたりこなかったりです。
もう二度と会うことはないけれど、今生の別れとなった最後の日、朝はわたしと一緒に暮らしていた住処から出ていったんです。
お味噌汁とのりご飯を食べて、じゃあねといって。
それからずっとかえってきません。
もうかえってこないのです。
男だけ見つからないんです。心中した相手の女は命を取り留めたことを知りました。きっとそして新しい人生へ歩んでいることでしょう。そのことだって、もう10年以上前の話です。わたしは還暦をすぎ、振り返っていつも思うのです。
うそだとわかっていても、尽くしている。自分が愛されていないと知っていても、一緒にいるたった一時間がほしくてすべて放り出してしまう。
いい男なんかじゃ全くない。わかっていても、なぜか愛してしまうんです。恋って、全部の神経をダメにしてしまうんです。
男の身柄はどこかに消えて、きっと見つからないと思います。もう時が立ちすぎましたし、死んだのは海ですから。
でも、男が死んだ瞬間はわたしわかったんです。
なぜといわれてもこれはわかりません。
でも、わたしにはわかったんです。
花房さんは以前、どんな恋でもないよりまし、というフレーズがあって、それはその通りで私(花房)はこの言葉が好きだ、とおっしゃっていましたね。
こんな恋でも、ないよりましでしょうか。
ないよりましでしょうね。
まし、どころか、今まだ・・・いまだに男が懐かしくいとしいのです。
過去に縛られて生きることのばかばかしさを言われます。
それでも、わたしはあの日々の焦燥や憤怒が懐かしい。亡霊でもいいから、わたしにとり憑いてほしいと願うのです。