俺は空を見上げた。冬特有の曇り空からは、いつのまにか雪が降ってきていた。ふわふわと雪は落ちかかって、俺の髪や肩についたり鼻先や頬を掠めたりした。一片の雪を目で追うと、それは彼女の前髪へと落ちてそのままそこに居座った。だけど俺は目線をもう少し下にさげ、彼女の目を見た。
彼女は俺を見ていて、その目は何故か辛そうだった。俺は無理矢理笑ったけど、多分出来損ないの笑顔になったと思う。それを見て、彼女が一層悲壮な顔をしたから。
言葉にしていないだけで互いに想いあっていたと、そう思っていたのは間違いだったのだろうか。
「気にすんなよ」
「違うの」
彼女が首を横に振ったから、髪についていた雪がはらりと舞った。その所為で雪片が彼女の顔や首にかかったけど、それにもお構いなしでもう一度言った。
「違うの、そういう意味じゃなくて……」
ふつり、とそこで言葉が途絶えて、小さく彼女が何か呟いた。
「え?」
彼女の言った言葉は確かに耳に届いたけれど、何と言っているのかがわからなかった。まるで呪文のように響いたが、それが外国語なのだろうことは想像できた。しかしフランス語でないことは確かだった。俺は大学でフランス語を学んでいるが、フランス語とは異なった印象の響きだったから。
彼女が俺を見上げる目は、寂しさが混じっていたものの悪戯が成功した時のようなものだった。
彼女は再び笑った。
「聞こえた?」
「聞こえたけどさ。どういう意味?」
「それは内緒」
「はぁ?それじゃ意味ないだろ」
「意味はあるよ」
彼女は立ち上がって雪を払い落とした。そして空を見て、雪が降っているのを見ると目を細めた。
「あー……雪が降ってきたね」
「今更、だろ」
今は冬で、ここは雪の降る場所だからな。
そう言ったら彼女は笑った。それもそうね、と楽しそうに言った。楽しそうにしている彼女を見るのが俺は好きで、ついさっきごめんねと言われたことも忘れて彼女に見入っていた。
すると彼女がこちらを向いた。笑っていたけれど強い光を湛えた目で。
「私の言ったこと、忘れないでよね」
「それも今更さ」
俺の言葉ににっこり笑って、約束よ、と彼女は言った。



それが去年の出来事。



あの日と同じように、雪は積もって輝いている。同じでないのは、彼女がここにいないということだけだ。
今年、彼女から雪が見たいというメッセージは来なかった。来年も来ないだろう。再来年も。雪が降って、ずっとずっと待っていても、だ。
去年の五月に、彼女は死んだ。
原因は病気らしい。詳しいことはよくわからなかった。一昨年の七月辺りから余命半年と宣告されて、でも彼女はそれ以上生き延びた。つまり俺と会った時、すでに彼女の体は限界で、未来が長く続かないことを彼女は知っていたのだ。
今なら、彼女があの時ごめんねと言った意味がわかる。そしてあの言葉の意味も。
彼女が呟いた言葉はドイツ語だった。ずっとあのフレーズを覚えていて、彼女の葬式の時、知り合った彼女の親友に訊ねたら、泣いて赤くなった目を細めてその人は微笑んで言った。
イッヒ・リーベ・ディッヒ。ドイツ語で『愛してる』よ、と。
彼女は俺の未来を思うと、俺に理解できない言語で密やかに自分の本音を漏らすしかできなかったのだ。それは彼女の優しさだった。
きっと俺はこの言葉を忘れない。雪のようにひらりと胸に入り込んだこの言葉は、しかし雪のように溶けはしないだろう。それは彼女の言ったように、あたたかい雪だ。

あてもなく彼女の追憶に浸りながら歩いていると、ふわりと目の前を雪が舞い落ちた。地面に落ちるまでずっと見届けて、ああ、雪が降ってきたんだとぼんやり思った。空があの日のように曇っていたから、もうすぐだとは思っていたのだが。
俺は空を見上げた。ごめんねと言われたあの時のように。空も、まったくと言っていいほどあの日と同じ色だ。そしてその空から、ひらりひらりと雪が舞い降りてくる。
そういえば、彼女は雪に生まれ変われたのだろうか。そう思った時だった。
「……」
唇に落ちてきたひとひら一片の雪。すぐに溶けて消えてしまったが。
「はは、は……反則だよ、それは……」
もう泣くことはないと思っていたはずなのに視界が霞んでしまって、俺は片手で目元を覆った。そんな俺にお構いなしで、雪は降って降って降り積もっていく。
あの時は信じなかったけれど、今では彼女が本当に雪に生まれ変わっていてほしいと思う。そうすれば。
この場所ではいつも冬に雪が降る。いつだって彼女に会える。




なだらかに続いていく道。一面の銀世界の中で、空はまだ足りないというかのように曇り、ついさっき止んだばかりなのに雪をいつ降らせようかと窺っているようだ。
こんな田舎道では除雪車なんてものは通るわけはなく、故に道は雪で覆われている。歩を進めるたびに足元で雪が踏み潰されて声を上げた。
去年彼女と歩いた道を、今は一人で歩いている。
だけど、ひとりぼっちじゃない。彼女が雪になって降り積もるから、ひとりぼっちじゃない。
彼女のことを引き摺りすぎるのは、彼女が気にするだろうから止めにしておこうと思う。彼女の為に泣くのも、これで終りだ。
でも、これだけは許してほしい。
俺は決してこの先、人に対して「君」という言葉は使わない。
彼女と同じ名前で、別の人を呼んだりはしない。
これくらいの我侭は、どうか笑って見逃してほしいんだ、希美。