伝え方のお話。
結論。
セトモノ的な固い言い方ではなくて、なる
べく物事を波風立てないよう、感情的に
ならないよう、理論的で客観的に話をすべ
きなのですね。
そうしないと、結論が正しかろうと正しく
なかろうと誤った伝わり方をして説得力を
欠く結果になるのです。
気をつけましょう。
おわり。
…というのは今までもさんざっぱらお伝え
してきたことなのですが。
今日も今日とてまたその理屈が正しいのだ
なあと思わされる出来事があったのです。
今、読んでいる池上先生の書籍は「政治の
ことよくわからないまま社会人になって
しまった人へ」という、わかりやすい
けど長いラノベ風なタイトルのものです。
いっこいっこ名詞や数値をきっちり覚える
程には読み込んではおりませんが、頻繁に
「なるほどなー」と思える様な書き方で、
読んでいて楽しい、もっと続きが読みたい
と思いつつも、すごくためになるのです。
2時間くらいかけて半分だけ読んだところ
なのですが、中学3年間の社会の授業で
得た政治の知識ほどの勉強になったと思え
る程なのです。
この本自体も「たとえ嫌いな政治という
議題であっても、伝え方次第書き方次第で
相手の興味を引くのも考え方への影響も
変わる」と言う事例になるのですが。
その中のいち記述に私の考え方を変えられ
たのです。
もう10年近くも前になりますか…。
「事業仕分け」ってのがやられた事があり
ましたよね。
その際、当時民主政権下でとある議員さん
がとある開発部署の予算案に対して「2番
じゃダメなんですか」と発言されたことが
ありました。
当時は私もバリバリのサラリーマンです。
開発、発展、競合他社、新製品、効率改善
などなど、そういう単語と真っ向からぶつ
かっていた時期でしたから、その発言を
聞いて「はじめから2位で良いと思って、
1位が取れるかアホンダラ!」位に憤慨し
たものでした。
その事業が良いか悪いか、お金をどれだけ
使うかという事よりも、その高圧的で開発
努力を見下したような言い回しに、お上へ
の反発心が沸き起こった記憶があります。
世論というか、ネットでの意見もそういう
風潮だったと記憶しております。
そんな批判もあいまったおかげか、今は
貴方がたも2番めの党ですよね。
2番でいいならそれでいいですよね。
2番でいてください。永遠に。
…と、内心ほくそ笑んでいた所だったので
すが…。
池上さんの説明を見て、かなり考え方が
変わったのでした。
事業仕分けはまさに「仕分け」が目的で
あり、「それだけの税金を投入してまで、
その事業を行う価値があるかどうか」を
チェックする場だったのです。
その「必要度合い」を説明させる場だった
のです。
ここからは私の予想なのですが。
その1番を目指そうと予算獲得に向かった
担当の方の説明が「1番になるために予算
ください!」みたいな説明だったのでは
ないかと思うのです。
その際、例えば…あくまで例えですが。
「この計算機は、こういう病気の新薬の
組み合わせの中で最も効果的で副作用の
低いものを導き出す事に使用されます。
今の計算機の速度では全ての組み合わせ
を計算するのに5年かかりますが、この
予算をいただいてこの速度の計算機を
来年完成させれば、そこから2年で導出
可能となる見込みで、新薬開発を2年
短縮できることが期待されます。
毎年この病気で30人の患者が命を落と
しておりますが、これで2年新薬開発の
短縮が出来れば、60人の命を救う事が
出来ると考えております。
もちろん、このような事例はこの病気に
限らずあり、さらには医療用途に限らず
計算速度の向上は多目的の応用が可能で
あるため、最終的に期待される効果は
測りきれません。
…たとえ、この計算機を使ってもね。」
みたいな説明が出来ればよかったのでは
ないかと思うのです。
そこで初めて、60人の命+最速の計算機
と、○億円の予算+「開発が成功したら」
というリスクを天秤にかけて「仕分け」が
出来たと思うのですよ。
それをただ「一番になるために」と言われ
たり、あるいは上述まで明確なメリットが
なく、本当にただ最速更新だけのための
「おあそび」になっていたりで、納得いく
根拠の提示ができなかったのではないかと
思うのですよ。
実際、最近その速度競争の話題、聞かなく
なっちゃいましたものね。
それに、本件に限らず「本当にこれだけの
予算が必要であるという納得がいう説明」
てのはその場では得られないものが多かっ
たそうですよ。
今までの説明がどれだけ予算決定の会議に
のみ向けたもので、なあなあで済んでいた
か、ということなのです。
本来なら血税を払っている国民が納得でき
るような使い方をしてもらわなければなら
ないわけで。
その使途を明確にするという政府の役目と
しては正しい行為だったそうなのです。
「パフォーマンスに終わった」という批評
はあったようですがね。
「一番になったら、どんなメリットがある
のか」「それはこれだけの金額に見合う
メリットなのか」「だったら、それを説明
してくれ」「これだけの金額をかけなけれ
ば一番になれないのか」ときても説明が
不十分で、じゃあ「二番じゃ(何が)ダメ
なんですか」となったのではないか…。
だったら、仕方がないのかも知れないので
す。
でもだったらそう言えばよかったのです。
頭ごなしで高圧的な発言というのはどんな
正しい主張であっても「高圧的である」と
言う点に反感を持つものがいるのです。
私みたくね。
説明って、言葉って、難しいものなのです
ねえ。
ごくごく一部だけを切り取ってみてしまう
と変な印象を持つ場合がありますし。
そうならないよう、あれもこれもと言って
しまうと重要な部分が見えづらくなったり
重要でない部分だけを取り上げられて曲解
されたりするものです。
だからこそ、伝え方は重要だなあ、という
ことなのです。
これだけ考えたって伝わらないのだから、
考えなしに感情にまかせて言った発言には
その感情に対する反感感情も湧くのです。
例えば…で挙げる例がちょっと重いかも
知れませんが…テロなんて挙げてみます。
飯テロとかエロテロリストのレベルでは
なく、ガチテロのお話です。
テロリストさんの何が悪いかと言うのは、
唯一無二、「自己が正しいという主張に
他者を虐げる方法をとるから」に尽きると
思うのですよ。
一般人を誘拐したり、殺害したり。
建物を破壊したり。
金よこせーとか報復してやるーとかいう
恐喝をしたり、です。
結局「異教徒が嫌い」という感情が混ざる
のではないでしょうか。
そうじゃなく、ただ自分の考えは正しい、
それに賛同する者達だけで作る楽園の世界
を目指しましょう、だけなら、ただの宗教
です。
宗教の自由で認められるべき権利です。
むしろそういう宗教人を虐げる方法で弾圧
する事が今まであり、それらはよくない、
悪とするようになってきたと思います。
そういう弾圧をされてきたからこそのテロ
という歴史もあるのでしょうけどもね。
今までやられてきた悪に対し、仕返しして
いるのかも知れません。
※注:改めて、話は重いのですが、私は
ぜんぜん重く考えてないです。
あくまで理論的な予想を交えて客観
的に分析した事例です。
その正しさの伝え方だけが批判されている
…と、私は認識しているのです。
その宗教が正しいか正しくないかなんて、
それこそ神のみぞ知るてヤツです。
宗教そのものの批判なんて微塵もありませ
ん。
私には信じる正義も憎むべき悪もありませ
ん。
ただ、「これが正義だよ」と言って「ああ
なるほど、それは正義ですね」と説得して
納得させてくれるような、そんな人は私に
とっての正義なのです。
私自身は「正義の味方の味方」なのです。
正義を正義と伝える方法のうまい宣教師の
ような人が大好きなのです。
「これは悪だけど私はそれでいいの」と
言うような人を嫌う理由もありません。
むしろ好きになると思います。
「その正義、理屈は正しいけど俺は何か嫌
だ」とか「これは悪だけど認めろ!」とか
「説明しない!だけどこれが正義と思え!
俺が正義と思え!」なんて主張の仕方だと
どんな役職でもどんな地位でも居なかった
ことにしたいのです。
私は「正義の敵の敵」で「悪の味方の敵」
なのです。
よくわかんなくなってきました。
人情を説いていても、その説き方が人情に
欠けていたらアウトなのです。
だからなのか、私は「男はつらいよ」が
大嫌いなのです。
あの手のガサツタイプは「実は思いやりが
あって」と評価されるのでしょうけれども
私は嫌いなのです。
ただ本人がガサツなだけなら別にいいので
すが、人当たりもガサツで迷惑を振りまく
ような人は合わないのです。
あくまでお芝居、あくまでキャラクターに
対しての個人的感情ですがね。
冷酷な意見でも仕方ないなあと思わされる
のなら仕方ないのです。
食肉とか…飼育動物の避妊去勢手術とか
ですかね。
命や生殖活動を奪うわけですから、ヒドイ
という見方もあるでしょう。
でも、人が生きるためには仕方がないので
す。
そういう観点で私の好き嫌いを見てみると
いろいろ納得な部分があるなあ、と、我な
がら思ったのですよ。
ジジイや田舎人が嫌いというのは、その
人情や温かみを伝えきれない様な横柄な
態度があるからなのです。
2次元やビジュアル系が好きというのは、
甘美な世界を魅せる術に長けているから
なのです。
中村うさぎさん、怒り新党のお二人、そし
て池上さんが好みなのは、自分の思想でも
どこか他人事のように客観的な見方をして
客観的に味方をしているように聞こえる
からなのかも知れません。
対して「俺が私が」のタイプで自己主張を
感情的に押し付けてくる芸能人は嫌いなの
です。
有名なネットスラングがあります。
「お前がそう思うのならそうなんだろう。
お前の中だけではな」
とか何とか。
感情という、誰にも説明できない正義は、
誰かにふりかざしてよい正義ではないので
す。
自分の中だけに留めておくべきなのです。
「こういう感情があるよ」という客観的な
説明に留めておくべきなのです。
その感情を、特に怒哀などの負の感情を
感情のままで垂れ流されたって知ったこっ
ちゃないのです。
私がこれまでのブログで「事例」を数多く
使用しているのも、「私がこう思います」
で話をしても何の説明にもならないから、
他の人にも共感してもらえるエピソードを
持ってくることで感情の共有を図ろうと
しているのです。
ことわざ、慣用句がそうですよね。
「泣きっ面に蜂」と言えばどれほど大変な
状況か伝わるってものです。
それを「俺蜂に刺されたことねえし」とか
「今泣いてないだろ!」と怒る人はアスペ
さんです。
ガチアスペさんです。
あるいは大変な状況を伝えるのに「チョー
ヤベー」としか言えないのは伝わるわけが
ないってものです。
マジッスカ位しか返す言葉がないのです。
事例の大切さ、わかっていただけたかね?
「事例は大切」いう説明にすら事例という
私とは別の正義の力を借りて説得している
のです。
私の事は嫌いになっても、私が説明した
理屈は嫌いにならないでください。
「なんか嫌い」という感情で理屈の批判を
しないで下さい。
批判をするなら、理屈的、客観的に。
嫌いと言うなら、あくまで感情の有無の
説明のみにして、感情そのものは心の中
へ。
それが私の目指す正義の味方なのです。
P.S.
マツコさんが一部ネットで批判される時
「うるせえデブ」で意見まるごとダメに
見られるのが心苦しいのです。
デブの点は嫌いでも、きちんと理屈を
説明しているのだから、理屈を見てあげ
てほしいのです。
でも、それもまた、「デブの姿で説明を
するのがダメな伝え方」と言う理屈に
なるのかしら。
ホント、伝え方って難しいわね。
だからこそ、だからこそなのよ。
せめて波風立てないように、ってのを
ことさらに強調しているのは、ただでも
伝わりにくい思いなのに、感情的にいう
時点で伝わりやすさが8割減なのよ。
否定したくなる反感感情が8割増しなの
よ。
感情を吐き出した当人の気が晴れるって
だけで、何一つ、そう何一つ、いいこと
ないのよ。