医療者として、僧侶として

患者さんにどうかかわっていけばいいのか


ずっと考えていた


迷う時は原点に戻る


そもそも、私はどうしたかった?


私は、亡くなっていく人に

どんな人であれ

自分の人生を振り返り、それなりに納得していけるような

そういう看取りがしたかった


同じ目線で傷つき悲しみ

そして受け入れられる勇気を持つ援助をしたかった


死が自然な事で皆に同等に訪れるものであるという事

生そのものがギフトのようなもの

苦しみも悔しさも悲しさ、残念な気持ち、いろいろ負の要素含めてギフト


この世で、自分だけの感情で経験できた

それが限られた人生というギフト


『いろいろあったけど、これが自分の今回の人生でした。負の要素含めて楽しかった』



宗教の教えを勉強すればするほど

とても興味深くて学問として面白かった


けど、何か違う


そもそも私自身には特定の信仰はないのだ


亡くなる方の耳元で囁くように読むお経がある

小経と言われるものを患者さんに希望され読んだ事がある


『偉いお坊様がこんな素敵な国を立ち上げた

とても素敵な場所

だから死んだら次はここに生まれ変わりたいと思うといいよ』


物凄く略すとこんな感じ(勉強不足はあると思います)


信仰が深い人にはこの上なく安心する響きとなる


けれども多くの人、今、信仰できてますか


たくさんの、信仰のない方に、

あと少ししか自分の耳で音が聞こえなくなる人に、

最後に聞かせたいと思わなかった


何故、どうして

家族の声を、自然の音を、聞かせてあげたい


生きているもののための宗教と言いながら、

死んだあとのことなんて誰も経験した人がいないし誰にもわかりえないのだからそんなことを考えて無駄に苦しむな、と言いながら

死後の世界の話がありそこで救われるという


『救い』って誰かに救ってもらうものではなくて

自分が納得するかどうか、ではないのか


何かを信じてそれに救ってもらう人もいていいと思うけど、それで救われるならそれがいいので


自分を救えるのは自分だけと私は思っている


それには

執着を捨てる事が

どういう結果であれ受け入れる事が

必要。悔しがらない。追わない。

人と比べない。羨ましがらない。

全て受け入れる。

私の場合そこにあるのが所謂『絶対的な存在のようなもの』のお導き、という感覚なのだと認識してしまった


これはもはや自分の信仰であって

教団の信仰ではない


疑問が次から次に湧き出てくるのも当たり前だし

なんにせよ窮屈だった


クリスマスも初詣もハロウィンも駄目

仏教ではないから


そうかなぁ、そんなに本当に狭いことを創始者は言っていたのかなぁ。


キリストもお釈迦様も他のいろいろな創始者は

創始者同士で仲良くお互いを認め合ってると思うけどな


そもそも同じ宗派の中でも常に争ってる


あちらは教義を理解していない

あちらは勝手な事を進めて教団を汚してる


もっと言えば


あなた『寺族』(生まれがお寺の人)ではないですよね

そういう差別のようなものは存在する


そして、どうして葬式に僧侶なんですか、という大きな疑問が湧く

お金ない人でもお経を読んで見送ってあげたいですよ。そのくらい。

けどそもそも、何故お葬式にお経なの

戒名とか何かよくわからんものに段階があって

遺族は亡くなった人が向こうで?恥をかがないように?より高いお金を払い名前をつけて『いただく』


ごめんなさい。まじで意味わからん

末期癌患者に

物凄く効くといって何かの汁を高額で売りにくるのと同じ匂いを感じる

藁をも縋る人の弱みにつけ込んでいるようにしか見えん


何かいろいろ疲れてきてしまって


心を静かに保ち、清らかな気持ちで真摯に何かに向き合う

そしてそれを看取りの場で活かしたい


けど、心が常にザクザクしてきたので


そもそもの原点に戻る


わたしは僧侶になって何がしたかった?


患者さんの上から話しをしようとしてなかった?

私の言葉の説得性を得ようとしてなかった?

人として偉い人、できた人と見られようとしてなかった?

1看護師ではできなかったこと?

1看護師ではダメやったん?


答えは『看護師でいい』

ちがう

看護師『が』いい


こうして私は僧侶を辞めました


ちなみに。

謙虚で素敵なお坊様はたくさんおられます。話すだけで心が静かになる。とても得が高い方なんだろうなと感じる

感じて自然に頭が下がる

一歩も二歩も下がってしまう

近くによるなんて畏れ多い


誤解のないように最後にそれは強調して書いておきます。

そしてこのブログは私のものなので私の感じた事を書いてます。それが誰かの『真実』とかどうとか、関係ないのです。