劇場的世界との向き合い方…(と、シャドウワーク) | 何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

主に形而上の案件とボンクラ主の感想。

話が進んできたのでますますぶっ飛んだ話をします。

最近は何だか煽っている様で申し訳ない気がしていますが、ピンとくる何かがあれば、そこから自分なりに読み取って解釈いただけると幸いです。

 

社会や世界の仕組みなど、幼さが残る内だとそれほど気にならないのかもしれませんが、幸か不幸か色々と知識が付いてくると何故か人の常識で測れないし人の動機として合わないことが次々と起きていることに薄々気付いてくると思うのです。

 

 

 

 

本題の前にシャドウワークを先に説明します。

ユングによるシャドウとは自分の中で表に出したくない抑圧している自己のことです。

それに対してのシャドウワーク(影作り)というのは、その認めたくない抑圧してきた内面と向き合い、人格の中に統合することで調和を保つことを目指します。

だから必然で最初はの内は辛いはずです。

ちなみにですが、集団的シャドウというものもあります。

これはとても危険で、まさに今の時代で起きていることです。

戦争や圧政、無関心などの負の形になって表れるとされています。

皆が己のシャドウと向き合ったならおそらく集団的シャドウも成りを潜めますので、まずは自分からですね。

 

 

最初に自己の内面の調和を目指すものだということは目的として明確に意識してください。

そして、何がシャドウなのかを実は意外と気付いていない場合が多いので、向き合う前にそこをはっきり認識することが先です。

これには禅や瞑想で心を落ち着いた中で俯瞰して探すことは、結構大きな割合を占めます。

だから前に紹介した呼吸禅/瞑想とかなり被る面は多くあります。

熱意の強い人であれば、それらだけで自分の心の働きの多くを知り、自然と反省点や調和や慈悲などを心に見つけられると思います。

 

 

また相手への自己投影に気付くことも大事です。

これは大半が無意識にやっているため気付いていません。

話し相手だったりネットのコメントなどでもいいですが、自分ルールを相手に要求したりなどは誰しも一定あると思います。

その辺の無意識の要求の中身を探っていくとシャドウの一つがおそらく見つかります。

 

 

例えば軽く腹の立った相手に、それとなく批判や非難を表現したとします。

泥棒は対立した相手を罵る時には泥棒と言うし、詐欺師は相手を嘘つき呼ばわりすることだと思います。

他に思いつかないからです。

これは自分の中の負の側面をそのまま相手にぶつけているからで、相手はそんなことは考えたこともありません。

こういうのは正に投影で、そういったことに気付くことです。

 

 

言ってしまえば禅や瞑想との行いは結構近いのですが、目的として禅が自己を知ることにあるとすればシャドウワークはシャドウとの統合を目的にしています。

目的が探究と調和としてくらいの違いで認識してもらっておそらくいいと思います。

シャドウと言うのは本来は、害や敵になるものではありません。

心の働きとしてその主人の武器となり道具となるものですが、抑圧するがためにそれを負の側面でしか認識できてないだけです。

調和できた時には自分の心も変わるので、シャドウは害を成す存在ではなくなっているはずです。

 

 

 

 

 

本題です。

今回はこの世界で体験していることは一体何なのか?と言う一つの推論をご紹介します。

前回もそうだったのですが、世界の仕組み的なことに迫ります。

ただし、くどい様ですがあるのは状況証拠だけで、完全な証拠と言えるものは証拠の証明を繰り返していくと最後には、目に映る全ては単なる自分の主観でしかないところに辿り着くものなので、基本的に状況証拠を自分の秤として何とか扱って測ってみようと言う気にならなければ、こういう話は信じるか否かの二択になってしまいます。

それではその人の経験に全く寄与しないので、分からなければ少しは状況証拠を秤とするにも多少の熱意が要ると思います。

おそらくはその方が楽しめます。

まあ私自身が力足らずではありますが、できるだけ噛み砕いては書きます。

 

 

ホーリズムという言葉がありますご存じですかね。

分割して調べて全体を知ったつもりでいる科学とは逆で、主に全体性を部分や要素として表すことはできないとする立場です。

私達は他人や物などこの世界の全てとお互いに影響し合っています。

それは自分の取った行動により因果関係ができて、次に何が起きるのかが決まる、という考え方が今の時代のよくある考え方です。

つまり科学的手法の影響が強い分割的な考え方です。

対してホーリズムは初めから全体が連動していると考えるので、因果関係で次の出来事が決まる訳ではありません。

因果関係は確かに存在するのですが、全体性から見ればそれは初めから決まっていることです。

これがビリヤードの世界なら球を突いた時にはその結果は動きが止まる前に既に決まっていると言うことです。

個人にはそれでも自由意志があると思われるでしょうが、それも個人をも内包した宇宙規模のビリヤードならその人が自由意志だと思っている思考内容も、玉のぶつかり合いと同じだということになります。

つまり決定論です。

 

 

その考え方に賛成できますかね?

この世の全てが現代科学の言う様に偶然の結果としての進化なら全体性から見る限り自由意志はありません。

なのにある様に感じてしまう。

それはその様に思い込んでいるだけですか?

この辺で2‐3日悩んでもいいかもしれないですね。

 

 

本当は実際に2‐3日くらい悩んで欲しい所なのですが、流れ上無理なので個人的な解釈を述べます。

はっきり言って、自由意志はあるはずです。

世の中がどう動くかは、それぞれ個人が舵を取って好きに決められるはずです。

何でこんな、一見当たり前のことをもったいぶって?と思われたでしょう。

私だってもったいぶった言い方は好きではないですが、このような言い方をわざわざするには意図があります。

 

 

自由意志があるなら、あなたはどういう存在ですか?

ということです。

よく私は自己認識しろだ、観念を取れだの、色々言っていますがそれと同じです。

最後に答えを言いますが、できれば読み進める前にご自身で考えてみてください。

 

 

ここ最近話題にしていた引き寄せなどは自由意志そのものではないでしょうか?

何で自分の考えが自然と現実になるのか、その意味は…?

前回の世の中はホログラムではないか、という理論は自分にとってどこか関わるところがあると思いますか?

ちなみに陽子(プロトン)がブラックホールだとする理論が正しかったとします。

であれば全ては記録されていると言うことになります。

ホログラフィック宇宙論の原理から言って、昼飯を何食べたとかいうレベルでなくて、自分の感情の機微やらミクロの出来事まで、宇宙の全ては記録されるということです。

 

そういえば陰謀団のシンボルはプロビデンスの目だし、何かとプライバシーに立ち入る監視の許可を要求してきますが…

 

全てが記録されるとなると、どういうことが考えられるのか?

これも下手な推理コンテンツを見るより余程面白いことが予想できます。

これらの理論が当たっているとなれば、アカシックレコードの概念や、予言者やリモートビューアーが過去や未来を知ることができることの強い状況証拠になりそうです。

 

 

 

 

これら最後に個人的な結論を言いますので、その前にもう一つ臨死体験の話をします。

話が飛び飛びになって読みにくいと思いますので申し訳ありません。

臨死体験者が語る内容が文化や宗教を問わずに一定の共通性を持っていることは結構有名だと思います。

そのためおそらく体験していることは、だいたい一緒だろうと思われますが、一神教文化圏だとその出来事を一神教に結び付けて解釈する場合が多くある様に思いますので、今回は日本の臨死体験者として有名な 木内鶴彦 さんの体験を例にさせてもらいます。

 

ちなみに前にも取り上げましたが、脳死状態で臨死体験をした人が何名かいますので、それを死にかけた時に見せる脳が作り出す幻覚という、意見はなしです。

それに個人的には脳に幻覚を作り出す様な能力はないと思っています。

ただ制限をかけてそう感じさせるだけです。

詳しくはブレインフィルター理論を前に紹介しましたのでそちらを参照ください。

 

 

本当は欧米の方々の方が臨死体験を語ることに対しては積極的で、その数は桁違いに多いと思います。

でも木内さんの場合は三度臨死体験をされたことと、その最中に色々と実験じみたことを行っていてそれがとても面白く、それでいて宗教や信念的バイアスがとても薄い様に感じました。

 

 

 

木内さんはこの界隈では有名人なので、知っている人は知っていると思います。

知らなければ10分ちょっとで見れる内容なので良ければ見てください。

 

 

この方は観念に囚われた不自由な方でなく探究心や遊び心が豊富です。

色々と自由に見てきた面白い経験のお方で、本能寺の変のその後の信長なども見てきたそうです。

ちなみに臨死体験の際に木内さんによると思った場所に瞬間移動できるし、過去や未来にタイムトラベルできるそうです。

この辺は木内さんだけでなくて他の臨死体験者でもそれを語る人がそれなりにいます。

でも、臨死体験中という肉体の制限のない自由な中でも、自分の行動はそれまでの自分の観念に縛られているので自分からやろうと思えなければそれはできません。

だから決まった観念を持つと言うことは、実態を無視してその人を縛るだけです。

 

 

話を戻して木内さんが宇宙の始まりとされているビックバンを探りに行ったときの体験談です。

字幕を追える様にしておきました。

文字が小さいことはお詫びします。

 

 

不思議な経験談です。

 

何故、タイムトラベルや瞬間移動ができますか?

例えそこでの経験が幻影だったとしても、自分のイマジネーションでそれが瞬時に映像にしたり考えついたりできるとはとても思えません。

それが先ほどのホログラフィック宇宙であるなら全ては記録されているので、自分が望むものを何でも現実化できる、引き寄せ的な性質が制約を受けない世界であれば…

状況証拠として組み合わせるならこの辺が符合するのかもしれません。

 

 

そして木内さんが見た世界の始まり。

これが意識の揺らぎから始まり、その元を辿るとそれは自分自身であった…と。

これは、人間がどういう存在なのかを示していると思います。

 

何度か紹介しましたが、 インド哲学のヴェーダーンタ学派に梵我一如の概念があります。

ブラフマン(宇宙を支配する原理)とアートマン(個人を支配する原理)は同じというものです。

その考えの発展形に不二一元論があって、ならこの世に存在するのはブラフマンのみ、ということになります。

そして全体は互いに繋がっていて、それこそ冒頭のホーリズムの世界です。

一挙手一投足が全体性として連動していて全体が一つの存在でもあります。

貴方と私は違う人物ですが、それは小指と親指が違うと言い合っている様なもので、元を辿って手首くらいの思慮に思い至れば、皆同じだと気付き始めます。

 

つまり

 

人間の本質は神だということ

 

です。

実態として何も変わらない訳です。

わざと記憶を失った状態で、二元性に分離された中の悪魔的存在が暴れる火事場の様な世界に意識を分けて顕現しているということになります。

グノーシス主義ではその元の意識をモナドと呼んでいますが、モナドは崇拝の対象とも言えますが、それは同時にあなたや私でもあります。

 

また途中で言いかけて止めていた話のオチですが、ホーリズムから個人に自由意志は存在しないはずなのに、自由意志があるとする根拠はこれです。

人間は全体性に対しての部品の様でもあるが、同時にその主体で中心でもあるから自由意志もあるはずだと私的には思っています。

 

 

とても奇妙な世界(の解釈)でしょう。

この話をまともに考えられるか分かりませんが、人間の行き着く先の目標と言うのは自分を思い出すことでしかないので、また近い内にもう少し捕捉しながら状況証拠を並べていきます。

 

だからですが、もし見てくれた方の中で、病気で死にかけるほど辛い人や、希望の見えない人がいたとすれば、どうでしょう。

ちょっとは楽になりませんか?もしそうであれば幸いです。

これは個人的解釈を述べるにすぎませんが、おおよそ間違っていないだろう自信はもっています。