今回は呼吸禅、または呼吸瞑想についてのお勧めです。
勧める理由は体と意識の働きを俯瞰するためです。
今計画的に起こされている、様々な負の出来事は私から見れば心を捕えるために起こされている様に見えます。
人口を大幅に減らすという話も、それが目的というよりはそれ以前に心の問題の様に感じています。
できるだけ恐怖を煽って、困窮させて、考える力を奪い、迎合的な人間に変えていく。
人の性を決めているのは習慣だと思いますので、良い習慣を身に付けてください。
体や意識との関わりを俯瞰できるならそれはいい習慣です。
人は人間としてちゃんと動く仕上がった完成品を初めから使えます。
でも完成された状態しか知らないのでは、ただ動かせるだけで部分や全体性は分かりません。
ペーパードライバーでも運転はできますが、それでは整備の仕方も調子が悪い時にどの辺に問題がありそうなのかは検討もつかないはずです。
また本来の性能がどういうものなのかも分からない。
特に年齢や経験を重ねるほどに、その人の認識の糸はこんがらがっていて、それをミックスジュースの様に味わっていますが、全部ごっちゃになっているからそうなります。
今回はそれを一つ一つ観察して本来の別々に認識できる自分を確認します。
本来の自分というのは色々な角度から眺めないと分からないもので、禅や瞑想はそこへの視点を一つ教えてくれます。
万能という訳ではないですが、その辺が分かれば固定観念が一つひっくり返ると思います。
まず瞑想と座禅の違いです。
瞑想は瞑って想うなので目を閉じます。
座禅は半眼のまま行います。
なぜ禅は半眼なのかと言えば、目を完全に閉じると色々な幻視も見えてしまうので不必要に気が散るためです。
好きな方でいいと思いますが、拘りがないなら座禅の方がいいです。
また座禅では結跏趺坐という特殊な足の組み方をしますが、それも長時間座っているのに他に比べて楽だから行っているだけなので無理にする必要はありません。
長時間座ることはそれだけで体に大きな負担をかけます。
最初は気が散ると思うので、どの道長時間座ることはない思いますので、別にあぐらでも構いません。
結跏趺坐を行いたければ徐々に関節を柔らかくしないといけないので痛くなったら止めてと、少しずつ慣れる方がいいです。
おそらくですが、成人であれば一回くらいは瞑想か座禅を何らか試してみた人は沢山いる様な気がしますが、たぶん継続できてないし行っている間も集中はすぐ途切れるしで、何の為に行っているのか分からなくなり、止めてしまった人が大半なんじゃないかと思います。
仏教的には目的として無になるとか聞いたことがあると思いますが、思考というのは途切れることがないためそれは高僧でも無理です。
無になるというのは、あくまで目標としてで、到達しなければいけない、という性質のものではないと思います。
呼吸禅/瞑想は呼吸だけに意識を集中します。
そうすれば他の感覚は意識の内に入らなくなり、呼吸だけを意識的に観察するということができます。
そうなれば意識と感覚というのを分けて考えられ、その違いや働きを意図的に探り、理解していくことの切っ掛けになります。
でもこの感覚を体得するまで継続することは結構難しいことです。
何故なら成果を感じられないからです。
そのため、禅を行う時に一番大事なことは
本気でやる
ということです。
行うからには必ず何か掴んでやる!くらいの気持ちでいいと思います。
冷静に呼吸を観察することと、同時に熱意を溢れんばかりに注ぐ。
相反するようですが、そうするのが何か掴むのには早いはずです。
何となく行うのは時間の無駄です。
これは三日で何か掴む人もいれば、何十年とやってなにも得られない人もいます。
アドバイスするなら言えることはそれだけです。
黙って座っていると眠くなってしまう人も稀にいる様ですが、とにかく呼吸に集中するのですね。
何なら取り込まれた空気が体を巡って、体中に行き渡るところや部屋全体の空気の流れが呼吸と繋がっているところまで呼吸を通して感じてもいいのではないかと思います。
こういうのは、その人が自ら掴み取らなくては意味がないので、伝統や他人のやり方に縛られずに好きにやっていいと思いますが、先に進むつもりがあるなら真剣にやるのがいいいです。
あとは禅としての宗派、つまりは考え方ですが、日本における禅宗は主に曹洞宗と臨済宗があり、その先には仏教の空思想があります。
その二つの宗派の主な違いは
曹洞宗 - 道元禅師が有名。只管打坐=ただひたすら座ることで至ることを目指す実践主義的な性格があります。
臨済宗 - 座禅と合わせて師弟での問答を重視します。俗にいう禅問答。
別に仏教徒を目指す訳でないので仏教的な理解は今は特に必要ないですが、もしその辺りの感覚まで至れる人がいればせっかくなので何で禅宗が座禅を大事にしてきたかの理由を知るのもいいと思います。
仏教哲学は深淵で奥が深いです。
ただし一つの見方に基づいているので万人向けと言えるのかは分かりません。
仏教の目指すところは、生まれつき持っている仏性に気付くことと、この世からの脱出です。
禅の考え方としては、雑念=思考の癖を取る事を目指していると言えると思います。
思考の癖というか観念と言った方が早いのかもしれませんが、それらを取り切った時に真の自分が見えてくるという考えです。
仏教には自我に対して真我という言葉があります。
自我は今のその人なので分かりやすいと思いますが、真我というのはその人が元から持っている根本の我のことです。
その真我に対して、習慣付けや成功体験などの刷り込みが癖として蓄積されて自我ができます。
仏教的に見ればそれは雑念です。
それを捨てろ、という話ではありませんが、本来は真我あっての自我です。
自我しか認識できないことは、自我と自己の混同に繋がります。
それはその時々に流されることと同じことなのかもしれません。
そうなってしまうと軸がある様でないとも言えるので。
だから禅は自分自身を認識するための一つの鏡として機能します。
元から持っている鏡の曇りを取るための行いです。
ただしそれを使いこなすには、知識だけでなく座禅という行が必要になります。
その行によって自ら気付くことが大事です。
そしてそれはロシア人形やら螺旋的な構造なので、どうしても上の構造に引きずり回されてしまいます。
自分だけ精神的に自立しようと思っても基本は社会にも属しているため、それは無理です。
その中で自分の中に確たる軸を作るには、自分を知り社会も知る必要があると思います。
そうして手に入れたその軸自体が歪んでない限りは、上の囲いがどれだけ干渉してこようと、自分の中では従う理法が確立できているのだからその人は強いと思います。
これから何年かはおそらくは何時死んでもおかしくない様な時代に入って行くと、個人的には思ってますので、連中の言う獣に落ちぶれない様な、堕落でない正しい精神を身に付けておくことは必要になる気がしています。
それをまだ手に入れてないと思うなら、強くそれを求めて熱意を注げばいいと思います。
自分から求めれば何かしら縁ができます。
正しい精神を求めたなら、たぶん正しく生きられる道も見えてくるのかもしれません。