在る様で無く、無い様で在る。東洋と西洋の違い。 | 何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

主に形而上の案件とボンクラ主の感想。

最近、霊だの意識体だのと奇を衒ったというか、構ってちゃんみたいな表現ばかりでバランスが悪いな、と思っていたのでこんな時は東洋的な考えに戻るべきだと思うので今回そちらをご紹介します。

と言っても馴染みがあるのは禅宗と他つまみ食い程度なので、その辺りの言葉をお借りします。

 

 

言わなくても何となく察しがつく人はつくだろうから、いきなり結論からです。

西洋は個を重視して分割して考える癖があります。

対して東洋的というかインド圏や中国圏では、全体から個を考える傾向があります。

東洋思想でも分割して思考体系を作ることはままあると思いますが、立ち位置が違います。

木の視点から森を見ようとする。森の視点から木を見ようとする。

そういう違いとも言えるのかも。

 

 

 

 

前回の夢の話ですが、本当か?何言ってんだこいつは、と捉える人もいるだろうと思っていました。でもその半面で何となく新鮮だったのではないでしょうか?

でも、実を言えばそんな目新しいことでもなく、現実を夢の類だとする考え方は東洋や日本では昔から普通にあったと思います。

少なくとも日本では

 

・人間50年~

とか

幽玄味や前に言った胡蝶の夢などもそれに近いと思います。

 

そういう考えは当時の文化の中心の一部だったのだろうから、まだ探せばたくさんあると思いますが、私もそんなに詳しくないので、こんな例で留まります。

私が紹介したのはそれを現代的解釈というか弁証法っぽくやっただけだと思っています。

今の日本人は日本文化の脈絡から切り離されて忘れているので、多分新鮮だったのではないのかな、と思いました。

 

 

 

心が世の中そのものを作っているという考え方も、西洋では唯心論と言い、古代インド~仏教では唯識思想と言います。

唯識は大乗仏教の空思想の元にもなっています。

内容はだいたい同じなのですが、解釈の視点として唯心論は自分の心が目に見える世界の全てを作っていると考えます。

それが唯識だと心が世を作っているという途中まではだいたい同じなのですが、途中からその心自体も分解してしまって、感覚器官や自意識などが感じ取った瞬間に心が生まれるとしています。

それはその瞬間だけの存在で、それが連続して起きているだけとなります。

分解して突き詰めると、最後には自分という存在自体も幻だと言います。

 
 

この辺で同じものを見ながらも、完全に道が分かれます。

だから西洋だと魂を中心にするから地獄や天国の賞罰的存在に繋がります。それは個人という存在がいてこそです。

それが唯識だと自分自身も実体としては存在しないので、煩悩や執着から離れられないゆえに自ら苦しみ、地獄の様な世界を自ら作り出していることになると思います。

(詳しい人からすれば微妙にニュアンスが違うかもしれないです。そうであればすみません)

 

説明が遅くなったかもしれませんが、唯識とは読んだ如くで、唯だ識があるということです。

識というのは五感と自意識の顕在意識部分で六識。

あと無意識部分を末那識と言い、深層無意識を阿頼耶識と言い、無意識部分が二識。

合わせて八識。それでその人の全ての意識が成り立っています。

そして世の現象というのは全て意識の表れと考えます。

 
(画像はWikiPediaの唯識より)
 

そこが西洋の唯心論との決定的違いは繰り返しになりますが、自分が存在するかしないかです。

同じ方向を見ながらも途中から捉え方に差が出てしまった感じです。

 

 

 

どうでしょうか。どちらが正しいなど何か感じるところのある人はおられましたかね?

私の場合はどちらも正しく、どちらも完全ではない、と思いました。

汚いやり口かもしれないですが…玉虫色というか。

これは自分からすれば、夜空の月を描く時に直接月を描くか、周りの暗闇から塗り潰して月を浮かび上がらせるか、くらいの違いに見えます。

書いている絵は同じです。

雲を掴むような話とも同じで、立ち位置や距離感がなどが違うと結論も違ってしまう。

遠くから眺めるなら雲は確かに存在するけど、雲を掴みにその中に入れたなら実態はないという結論になる。

なら、同じことをやっているのであればお互いに統合してしまえばいいと思ってます。

結論が違うなら、過程だけお互いに融通し合うだけでもいいではないですか、と思ってしまいますが伝統が固まっている中でだから、それをやれるのは個人の解釈の中だけとなりがちです。

その前に心が世界を作っているという考え自体を受け入れられる人は、現代だと少数派なのだと思いますが。

 

 

 

 

私からするとですが、同じものを見て結論が違うということは、比較できるので助かるし、とても良いことだと思います。

むしろ同じ結論になることの方が良くないと思ってます。

多様性のなさは滅ぶことに繋がるし、違いを比べることで進歩があると思うので。

 

私からすれば東洋と西洋の思想は両極です。

両極というのは本来は二つで一つの存在と言えて、もしお互いに協力し繋がり合えると、片方だけの結果を数倍以上の成果を出せると思っています。

10kg超くらいの荷物を片手で持ち上げることは結構難しいと思います。

でも両手で持てばそんなに難しくはないはずです。

1+1が3とか4に普通になります。

だから手を取り合えるといいですが…伝統が先立つほどだいたい偏ってしまいますが、個人の中なら融和できるはずです。

気持ちさえあれば。

 

 

前にも言ったのですが、今は分離の時代なんですね。困ったことに。

何から何まで分離されて、分離の隙間を社会制度やテクノロジーが埋めていく、そういう時代です。で、おそらくはその末期。

だから分離前には本来10の能力があった人は今や1~3くらいしか力を発揮できてないのだと思います。

なら分断されたものを見つけて、いちいち統合してみてはどうでしょうか?

何事にも必ず二面性が隠れています。

それを見つけて自分に組み込めたなら、おそらく世の中の見方も人生の目的も変わると思います。

まずは何が分離なのか知る必要がありますが。

とりあえず右脳と左脳とか、恐怖と勇気とか、男性性に女性性、今回の東洋と西洋とか。

でも両利きに矯正することはないので、得意な方を補佐するくらいでいいのだと思います。

 

そして時代が大きく変わてしまうのなら、自分で目的を見つけて、困難を承知でそこに進むのが正しいと思います。

社会にそのまま付いていったら、人間以下になるまで果てなく分離されてしまいますので。

そのためにも自分の欠けた部分を取り戻したいものです。

その気さえあれば誰にでもできることだと思ってます。

やる気のある方がもしもいたなら、応援してますので頑張ってみてください。

無駄にはなりませんので。