出口汪さんの本を読んで思ったこと。
私は知るとか、学ぶことが
好きなんだと思った。
私にとって、
それは勉強するとか、
って感覚ではなく
自分の興味、関心あることを知る、学ぶ
って遊びをしているんだと。
自分の知らなかったこと、
これまでとは違った視点に気づくこと。
それらすべてが
学びであると同時に
私にとっての遊びだということ。
だから、
その学び、遊びを記録したい。
それも私にとっての遊びなのだね。
そもそも、仕事、遊びと
分類する必要もないね。
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この方、予備校の現代文の先生で、
文章の読み方、書き方、話し方などを
論理的に捉えるということを教えてらっしゃる。
で、何冊も著書がある中の二冊読んでみた。
日本語力人生を変える最強メソッド
「最強!」のアウトプット術
出口汪
術的な解説であるとともに
論理的に考えることの面白さ、すごさ。
勉強の楽しさを伝えたい。
ということで書かれている。
私がキャッチしたのは、その術ではなく
例題として出されていた文章だった、
そこ?、笑。
↓
仕事の対義語は遊びである。仕事が何かを生産したり、経済的利益を得たりするのに対して、遊びは利潤を追求するものではない。遊びが利潤を追求したとたん、それは仕事になってしまうからである。
仕事は有効かかどうかが大切であり、効率が重要視される。時には嫌なことでも我慢しなければならず、あるいは何かを強制されることが多い。その意味では不自由だといえる。また仕事は未来に指向する。未来の成功のために、今努力するのである。
それに対して、遊びは自由である。面白いから遊ぶのであり、もし面白くなければ、その遊びを中止するするか、別の遊びを考え出すしかない。もちろん、遊びは現在がすべてであり、将来について心配する必要などない。
本来人間は自由であったはずだ。だが、将来の蓄えのために、働くことを余儀なくされるようになった。その結果、仕事は時には人間を束縛し、不自由を強制する。そこで、人間性を回復させるために、遊びを必要とするようになった。
そもそも遊びとは何だったのか?
ギリシア時代には、労働は奴隷の仕事であった。市民は生涯遊んでいればよかったのである。といっても、今のようにテレビも漫画もゲームもない。彼らにとっての遊びは政治であり、哲学であり、文学であり、音楽であった。彼らは生涯遊び尽くさなければならず、そのため哲学も文学も、そして学問も高度なものに発達した。彼らにとってそういった学問・芸術こそ遊びであったのだ。
日本で遊びが高度に発達したのは、平安時代であろう。后や女房たちは家事をする必要などなく、ひたすら遊んでいればよかったのである。だから、古語における「遊び」は音楽のことを意味し、そういった状況のなかで、あの源氏物語や枕草子や数々の和歌が生まれていったのだ。
勉強は、本来は遊びだった。面白いから勉強をしたのである。
ところが、成績のために、受験のために、今努力しなければならないと思った瞬間、本来遊びであった勉強が一転仕事へと変貌する。仕事は不自由であり、強制であり、効率と有効性、そしていかに偏差値が上がったかという結果だけが問われることになる。そして、過度に勉強すると、人間性が疎外される危険性を指摘する意見もあるのだ。
だから、今こそ、遊びとしての勉強を取り戻そう。
受験生、学生に向けたメッセージと捉えられるが、勉強を仕事と置き換えると、大人も含めたすべての人に通じるメッセージだよね。
自由、AIの発達、様々なことが
つながってくる。