広告業界を目指して | makoto`s note                   

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日々の暮らしや仕事の事、健康の事、楽しい事、
心地よい事、面白い物、破格な物
僕の経験で、もしかしたら読んで下さる方のためになる事を
思い付くままに書いています。

20代の頃から広告業界を目指していました。

 

僕の夢は幼少の頃から始まります。

 

当時、僕の親友の家は工務店を営んでいました。

 

そこにいた彼の叔父さんはインテリアデザイナーで

 

とっても絵が上手く僕の憧れでした。

 

インテリアデザイナーと言うのも

 

実は記憶が曖昧なんですが、

 

絵がとても上手かった事だけは鮮明に覚えています。

 

そこからずっと絵に憧れがあり、

 

段々とデザイナーに憧れるようになりました。

 

そこからモノ作りがカッコ良く思えるようになったんだと思います。

 

もしかしたら広告デザイナー何て言う浮き草商売より

 

もっとハードに拘っていたら、また違うように思えています。

 

でも広告が持て囃されていた時代であり

 

多くの書物も出版され、気持ちはそちらに流れて行きました。

 

ちょうどコピーライターの「糸井重里や中畑貴志」の時代です。

 

永井一正石岡瑛子横尾忠則田中一光浅葉克己

 

など、たくさんの憧れる人がいる時代でした。

 

面白い記事があったのでhttps://nostos.jp/archives/98800

 

を見て下さい。

 

また広告業界は有名な会社に入るのに

 

指定校制をとっている時代でした。

 

でもこれもハードルが高く、余計に燃える要因だったかも知れません。

 

当時僕は東京農業大学に通っていて、夢を叶えるのは到底無理で

 

最初の結婚もあり、3年で中退を考えていました。

 

当時の嫁さんの実家は印鑑屋で結婚したら家業を継がせたい

 

当然ですがそんな風に考えていたようです。

 

しかし僕はと言えば職業訓練校で写植の勉強をしていました。

 

写植の勉強をしていれば印鑑屋でも役立つので親を説得し

 

夢を諦め切れなく、何とか潜り込もうとしていたんです。

 

その甲斐があって卒業後「朝日アド」と言う当時朝日新聞の

 

広告欄のデザイン・版下をやってる会社に潜り込む事が出来ました。

 

印鑑屋の親は本意では無かったと思います。

 

義理の親には結局理解はされず毎晩口喧嘩の末に離婚しました。

 

今になって考えると、ハンコ屋も良かったかも知れません。

 

でも毎日何をしてると聞かれるのが

 

夢を追ってる、当時の若い僕には耐えられませんでした。

 

「朝日アド」で版下を覚え、飲み屋で知り合った

 

車の広告をやっている会社に入りました。

 

そしてその後、当時上の階でバイク雑誌を作っていた

 

「バイクコネクション」でバイク雑誌の創刊に立ち会う事が出来ました。

 

ここでの仕事・出会いが僕の人生を大きく変える事になります。