【卑弥呼の冢(墓)】がどの地域のどの古墳なのかを指定する前に、
私は、そもそも古墳とは何だろうか?
或いは、古墳の成立・発達過程を考える必要があると思います。
因みに私は日本の古墳の原型は中国の秦の始皇帝陵ではないかと考えています。
この思想を秦の終わり頃(紀元前210年)に斎の徐福が倭に伝えたのではないか?
その証拠に初期の墳丘墓は始皇帝陵と同じく、方形の墳丘墓が多いわけであり、
方形墳丘墓は始皇帝や徐福の信奉する道教の陰陽五行思想によく合っているのです。
中国陝西(せんせい)省西安(シーアン・長安)北東30kmの驪山(リザン)北側にある始皇帝陵
(東西350m、南北345m、高さ76m; 周囲地下は兵馬俑で囲まれる)紀元前247~210年頃建造
元々、弥生時代の倭に古墳はなく、当時の王や豪族の墓は墳丘墓と呼ばれています。
なにしろ倭には弥生時代中期の一世紀頃まで、この墳丘墓さえも無かったのです。
当時王の亡骸は庶民同様甕棺に納められ、王だけは支石墓に葬られていました。
支石墓の代表が西暦57年に後漢の光武帝から【漢倭奴国王】銘の金印を戴いた
倭の【奴国王】の墓と考えられる奴国の須玖岡本遺跡王墓(春日市)です。☟
須玖岡本遺跡 支石墓の上石(支石墓を覆う大石、この下に大型甕棺が納められていた)
男王墓と思われる甕棺墓の中には、漢皇帝から下賜されたと思われる漢鏡32面以上、
銅剣、銅鉾、銅戈等の武器型祭器、ガラス製璧や勾玉、管玉などの祭物が埋葬されていた。
つまり、倭王である奴国王の統治していた紀元一世紀頃迄の倭国は、
倭の中でも特に都会だった奴国ですらも、まだ墳丘墓は無く、支石墓の時代でした。
但し、この須玖岡本遺跡の支石墓周囲はある程度土が盛られていたらしく、
黎明期の墳丘墓ではないかと考える考古学者の先生もいらっしゃるようです。
須玖岡本遺跡と同時期と思われる遺跡に飯塚市の立岩堀田遺跡があります。
当時まだ、女王国連合と須佐之男命王国は分かれていなかったようです。
次いで【伊都国王】で、西暦107年、後漢の安帝に生口160人を貢献した
【倭国王帥升】の墓の可能性もある伊都国の三雲南小路遺跡では、
周囲に幅3~4mの溝が掘られた大型(32×31m)の方形周溝墓となっています。
方形周溝墓は周囲の溝を掘った土で墳墓を盛る方式で、後世の古墳と同じ作り方です。
つまり二世紀に入って漸く、北部九州で真っ当な墳丘墓が作られるようになるのです。
墳丘墓の時代になったとは云え、当時の棺桶はまだ甕棺のままでした。
但し、支石墓である須玖岡本王墓のように甕棺墓上に上石は載せられていません。
伊都国 三雲南小路遺跡の倭國王・帥升のものと考えられる王墓 【方形周溝墓】
二基の甕棺は王と王妃のものと思われ、大きな男王甕棺からは漢鏡35面、銅鉾、ガラス製璧、勾玉、
小さい妃甕棺からは漢鏡22面以上、ガラス垂飾、勾玉が出土。他に周囲から銅剣、銅戈が出土した。
墳丘墓は次第に一般化していき、伊都国で三世紀初頭に建造されたのが平原王墓です。
この墓はまさに卑弥呼時代のもので、卑弥呼在命中に作られたと考えられます。
平原王墓の周囲には溝が掘られており、こちらも【方形周溝墓】となるようです。
弥生時代の墳丘墓はこの墓のように径14×10.5m程度のものが標準でした。
これより古い三雲南小路王墓が比較的大型なのは、倭王(倭国大王)の墓だからでしょう。
伊都国(現在の糸島市前原)の平原遺跡王墓(方形周溝墓:径14×10.5m)(著者撮影)
平原王墓は原田大六等が発掘したが、日本最大の径46.5㎝もある八咫鏡と同型の
大型内行花文鏡五枚を含む舶載鏡及び仿製鏡を交えた銅鏡40枚が出土しています。
【倭女王卑弥呼】が太陽の女神(日巫女=日御子=天照大神)であり、
天照大神の分身が八咫鏡とされるように、卑弥呼は鏡を祭器としたに違いないから、
発掘者の原田大六の如く、平原王墓を卑弥呼の墓と考える人もいます。
だが、『魏志倭人伝』を見ると、卑弥呼時代の伊都国に関しては、
「世世王有るも皆女王国に統属す」と記されています。要するに
倭国=女王国連合に統属していた伊都国王は倭女王卑弥呼の僕に過ぎません。
私は当時の伊都国王は、卑弥呼同様に女王だったのではないかと考えています。
伊都国王に任命された女王も倭女王卑弥呼にあやかり、鏡を祭器としたのでしょう。
ここで注意すべきは、当時になると甕棺墓はもはや棺桶として使われなくなっており、
女王と思われる被葬者の遺骸(=風化後)は木棺墓に埋葬されていることです。
私はこれ以前に倭国の文化が幾分変わったのではないかと考えました。
紀元107年頃の伊都国王は、倭王に共立された男王・帥升だと考えられるが、
184年頃の伊都国男王は倭国大乱を起こした責任を取らされ、倭国から追放されます。
このことを『記・紀』では、須佐乃男命の高天原追放と表現しているようです。
『記・紀』の謂う千座置戸は今迄理解不能でしたが、家屋千戸を置き去りにすることでしょう。
伊都国は比較的大国の割には『魏志倭人伝』に戸数はたったの千余戸と記されます。
だが、『魏略』には戸万余と記されるのは倭国大乱前の資料を使ったのかも知れません。
伊都国男王は千余戸を伊都国に残した儘、他の住民を連れて出雲に東遷したようです。
倭国を追放された伊都国男王=須佐之男命は徐福系勢力の王だったと考えられます。
その証拠にその後、
銅鐸等の徐福系祭器は倭国を離れ、出雲国等の芦原中国内で見つかるようになります。
さて、墳丘墓は次第に一般化していき、九州北部の倭国=女王国連合圏内ばかりでなく、
日本海側の出雲国から越国、瀬戸内海沿岸部、近畿圏と日本全域に広まっていきます。
これら倭国以北の文化圏は高天原=倭国=女王国連合を追放された伊都国男王=
須佐之男命~大国主命~大物主神=徐福勢力(物部氏)によるものだと考えられます。
銅剣や銅鐸が祭器とされ、西から東へ広まると共に次第に大型化していったように、
墳墓も弥生時代に北部九州で小さく始まり、次第に全国へと普及していくのであるが、
古墳時代に入ると墳丘墓は古墳となり、銅製祭器の様に急激に大型化したようです。
墳丘墓~古墳の発達を考えていくにはこのように極めて順当な進化論が必要です。
出来たばかりの墳丘墓が箸墓のように巨大な前方後円墳であるはずがないのです。
だから、箸墓を卑弥呼時代に置く年代論はそれだけが突出して他と融和しません。
つまり、径百余步を150mとし、前方後円墳・箸墓の後円部だけに充てる意見は、
箸墓を無理やり卑弥呼の墓とするために、こじつけた口実だと考え易くなります。
葦原中国の特に首都である出雲国では、徐福系大王となった大国主命が、
一大勢力圏を築いて特異な発展を遂げました。そして大王の墳墓として、
方墳の四隅を極端に強調した四隅突出型墳丘墓が作られました。
出雲国(島根県)西谷遺跡群にある四隅突出型墳丘墓 (著者撮影)
もう一方の、倭国文化圏と異なる吉備文化圏でも大型墳丘墓が作られ始めます。
こちらは卑弥呼の治める倭国=女王国連合との親和性が比較的高かったらしく、
楯築墳丘墓のような天照大神を模った円墳に近い大型墳丘墓が作られています。
吉備国が倭国=女王国連合と比較的近しい関係だったことは、
神武が東征時に吉備国高島宮に8年も居たとされることからも想定されます。
私は倭列島の各地域でこう云った大型墳丘墓が作られるようになったきっかけは、
倭国で卑弥呼が亡くなり、径百余歩の卑弥呼の冢が作られたことだと考えています。
さて、次回はいよいよ卑弥呼の冢はどの墳墓かについて、解説したいと思います。
下の二つのバナーをクリックして、応援よろしくお願いします。