この度は『古事記』『日本書紀』の記載を『魏志倭人伝』を参考にして独自に解釈し、

現実の歴史にある卑弥呼=天照大御神の時代を論理的に考察してみました。

これから書くストーリーが一点の矛盾も無く成立すれば、【邪馬台国九州説】及び

【邪馬台国東遷説】が正しいことの根拠になると思われます。

 

過去の歴史学者や邪馬台国研究者は、これらの文献に出てくる話を、

まるで何処か他所の国の話の如く、現実味の無い解釈を繰り返してきましたが、

これ等の文献には紛れもなく我々の住む日本国の史実が書かれているわけですので、

その内容は現代人の我々にとっても、極めて身近な物事のはずなのです。

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先ず第一に『古事記』『日本書紀』の記す高天原は所謂天国のことではありません。

古代日本の地上の何処かに実在したある一定の地域=国のことです。

私は高天原を、『魏志倭人伝』の記す【倭女王卑弥呼】=天照大御神の統治する

九州北部の小国三十国が連携した女王国連合=倭国のことだと考えます。

 

帯方郡(現在の京城=ソウル)から海岸沿いに水行し、狗邪韓国(金海・釜山)より渡海、

對馬国、一支国を経由して、末魯国に上陸し、伊都国から南水行十日陸行一月で、

倭国の首都・邪馬台国へ至る道中に在る国々、

一;対馬国、二;壱岐国、三;末蘆国、四;伊都国、五;奴国、六;不彌国、七;邪馬台国

に加え、国境を接して連続する二十一国、

①斯馬国、②巳百支国、③伊邪国、④郡支国、⑤彌奴国、⑥好古都国、⑦不呼国、

⑧姐奴国、⑨対蘇国、⑩蘇奴国、⑪呼邑国、⑫華名蘇奴国、⑬鬼国、⑭為吾国、

⑮鬼奴国、⑯邪馬国、⑰躬臣国、⑱巴利国、⑲支惟国、⑳烏奴国、㉑奴国

が反時計回りに連続して並んでいたと考えられます。

参照; 【反時計回り連続説】

この二十七国(奴国は重複)にその余の某国三国を加えた計三十国が、

女王国連合=倭国=高天原を構成する小国であったと私は考えています。

 

倭国の南には女王卑弥呼に対抗する男王卑弥弓呼の治める狗奴国が隣接していました。

反対に倭国の北側には大王大国主命の治める豊芦原中国が存在しており、

倭国(高天原)と出雲・大国主連合(豊芦原中国)は、

『女王の境界尽きる所』と記される奴国(現在の福岡市)の北で境界を為し、

その範囲は宗像国から四国、及び中国・近畿・中部・東海地方にかけて拡がり、

出雲国に首都を置いていました(出雲・大国主連合)

☟ 下図

 

 

北の豊芦原中国に対しては国力・軍事力的に優位を保っていた倭国としても、

南の狗奴国は強く、国力・軍事力が拮抗し、長い間睨み合いを続けていました。

 

正始八年(AD247)、遂に倭国対狗奴国戦が勃発すると、

苦戦した卑弥呼は載斯・烏越等を帯方郡に派遣し、

予てから親交を築いてきた魏に救援を仰ぎました。

帯方太守・王頎も『友好国倭国の危機』とばかりに、

急いで卑弥呼の求めに応じ、塞曹掾史・張政を倭国に派遣し、

予め用意していた魏の黄幢と証書、及び新たに檄を作って倭国に齎しています。

ところが高齢(80代)の卑弥呼は苦戦続きの戦争対応で心労が重なったのか、

張政が倭国の首都・邪馬台国に到着した時には既に亡くなっていました。

 

卑弥呼の死後、大いに冢(径百歩=50mの円墳)が築かれ、

卑弥呼の世話をしていた奴婢千人のうち、高齢の百人が殉葬されています。

卑弥呼は死後に、この様な鄭重な扱いを受けていることからも、

卑弥呼が首都・邪馬台国に攻め込んできた狗奴国軍に捕えられて、

殺されただとか(その場合卑弥呼の遺骸は狗奴国に持ち去られるでしょう)、

塞曹掾史・張政が実は倭国を支配する帯方郡の放った刺客であり、

高齢のために呪力の落ちた卑弥呼をもはや用済みと見做して処刑した説などは全て、

後世の陰謀論好きの研究者(松本清張氏等)が考えた妄想と視るべきでしょう。

私は卑弥呼の死因を心筋梗塞や脳溢血等の急性血管障害によると考えています。

 

倭国対狗奴国戦はどうやら魏の黄幢・証書・檄が威力を発揮、停戦に持ち込めたようです。

ところが、卑弥呼の死後、後を継いで男王が立つも倭国中から支持されず、

【第二次倭国大乱】が勃発し、千人を超える戦死者を出してしまいます。

この戦争は倭国内乱なので、魏に釘を刺された狗奴国は只傍観していたようです。

この内乱は卑弥呼の宗女・13歳の台与が新倭王として共立されると遂に収まります。

 

ところで、東京天文台の斉藤国治氏による過去の日蝕分析によると、

卑弥呼の死の正始八年(AD247)、台与即位の正始九年(AD248)に

二年続けて、北九州で皆既日食が起きたとされています。

即ち、『記・紀』に有る天照大御神の天磐屋籠り、天岩戸開き神話は、

当時の衝撃的歴史を倭国の民が記憶し、伝承したことから出来た神話と思われます。

 

倭国内が落ち着くと台与と高皇産霊神は北の豊芦原中国に対し、侵攻を開始します。

そこで、建御雷神を大将とする倭国軍を豊芦原中国の首都・出雲国に出兵させると、

健御名方神を大将とする豊芦原中国軍と倭国軍との間でいよいよ戦闘が開始されますが、

倭国軍の持つ鍛鉄剣(布津御霊剣)の切れ味は圧倒的に勝っていたらしく、

切れ味の鈍い鋳鉄剣(十拳剣)しか持たない豊芦原中国軍はたちまち総崩れとなり、

信濃国の諏訪湖方面迄敗走すると、その地で遂に全面降伏してしまいます。

 

豊芦原中国軍が敗北したのち、美保浦で釣りをしていた処を倭国軍に見つかり、

国譲りを認めると同時に自らの乗っていた船を傾け、天の逆手を打って青柴垣に変え、

中に隠れた(死んだ)のはどうやら事代主命ではなく大国主命本人だったようです。

出雲国には自殺した大王・大国主命を【鎮魂】する為に出雲大社が建てられました。

(因みに事代主命の方は出雲国を脱出し、畿内登美に逃げていたようです。)

 

台与と高皇産霊神は征服した豊芦原中国の統治の為、天孫饒速日尊を降臨させますが、

饒速日尊は天照大御神=台与から十種の瑞宝を授けられると、

多数の従者や船乗り、天物部たちと共に天磐船に乗り、天空を飛び回って、

河内国の河上の哮峰に降臨した後、登美の白庭山に移動しました。

饒速日尊はその地で長脛彦命の妹・御炊屋姫と結婚して妊娠させるも、

未だ子が生まれないうちに亡くなったとされています。

饒速日尊の死後に生まれた嫡男の宇麻志麻遅命は、父親から大王の座を継ぐも、

まだ幼かった宇麻志麻遅命を差し置いて、叔父の長脛彦命

豊芦原中国の政治の実権を握っていたもようです。

この辺りの事情は『先代旧事本記』には正直に記されていますが、

『記・紀』は饒速日尊が天照大御神の実質的後継者だったことを示す

饒速日尊河内国の河上の哮峰登美の白庭山への【天孫降臨神話】を隠蔽しており、

代わりに瓊瓊杵尊と天若日子の【天孫降臨神話】が挿入されています。

 

二代目天照大御神=台与は南の狗奴国の攻略も諦めていませんでした。

だが、嘗て倭国は手強い狗奴国相手に正面からまともに打つかって、

痛い目に会った経験があるので、この度は戦法を変え、狗奴国=熊襲・隼人連合の

弱点と思われる日向国方面へ回り込む所謂迂回戦法に出た模様です。

この迂回戦法は倭国軍が【神武東征】で畿内を攻める時にも使った戦法であり、

どうやらこの頃から倭国軍が得意としていたもようです。

 

天孫饒速日尊の弟、瓊瓊杵尊を大将とする倭国軍は、倭国の首都・

邪馬台国(筑後山門)を出発すると、猿田彦命を道案内に、筑肥山地に登り、

阿蘇外輪山の稜線を辿って現在の緒方町の辺りから祖母山を越え、

日向国高千穂の久慈布留峰【天孫降臨】しています。

 

宮崎県高千穂町には今も久慈布留神社があり、瓊瓊杵尊が祀られています。

 

宮崎県高千穂町にある櫛布留神社(撮影・著者)

 

瓊瓊杵尊は更に南下して宮崎県南高原町の霧島山高千穂峯山麓に至ると、

此処は良い土地だと愛でて、天にも届くほどの高い宮殿を建てます。

 

高原の宮殿から更に南に遠征した瓊瓊杵尊は、薩摩国阿多郷笠沙岬に至ると、

その地で出会った阿多隼人の娘・コノハナサクヤ姫と恋におち、結婚しました。

二人の間に出来た子供は燃え盛る炎の中から産れ出でた

火須瀬理命、火明命、火緒理命=彦火火出見命の三兄弟とされます。

炎の三兄弟のうち、末弟の彦火火出見命=火緒理命(山幸彦)

(わた)神宮(つみのみや)で出会った豊玉姫との間に出来た子がウガヤフキアエズ命で、

ウガヤフキアエズ豊玉姫の妹・玉依姫との間に出来た子が

狭野命=神倭磐余彦=神武天皇だとされています。

 

瓊瓊杵尊らが指揮する倭国軍は日向国と投馬国・大隅国で隼人族を征服し、

これで本国の倭国と合わせて狗奴国(球磨国)包囲網が完成しました。

この時、漸く狗奴国攻めの準備が整っていたようです。

 

ところで、延岡市北川町には可愛嶽(えのたけ)陵があり、瓊瓊杵尊の陵墓とされます。

西都原古墳群の男狭穂塚、女狭穂塚も瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の墓と伝えられますが、

男狭穂塚は帆立貝型古墳、女狭穂塚は前方後円墳なので、

四~五世紀以降のものとなります。やはり男狭穂塚、女狭穂塚は

日向王権(諸塚牛「主」と髪長姫)時代=応神・仁徳時代のものなのでしょう。

 

西都原古墳群内の女狭穂塚(宮内庁管轄木花咲耶姫陵墓候補地・撮影著者)

 

このように南九州に瓊瓊杵尊の墓があることからも、

瓊瓊杵尊は南九州で、隼人族との戦闘中に戦死したものと考えられます。

瓊瓊杵尊の死後、息子の火須瀬理命=五瀬命と火緒理命=彦火火出見命が、

父親の後を継いで、倭国軍を将軍として率いていたようで、

いよいよ狗奴国攻めの時を待っていたものと思われます。

 

一方、北の豊芦原中国では、長脛彦命がまだ幼い宇麻志麻遅命の名代として、

豊芦原中国統治の実権を握っていましたが、

宇麻志麻遅命が成人した後も長脛彦命がなかなか政権を渡さないとの情報が、

高天原=倭国の首都・邪馬台国に齎されると、

怒った天照大御神=台与は南九州で狗奴国との戦いを控えていた倭国軍に

「狗奴国攻撃を中止して、急遽畿内登美へ進撃せよ」との命令を出したもようです。

 

倭国軍を率いる五瀬命と彦火火出見命はこの命令を受け、

日向国美々津から船を出し、東征の旅に出ます。

 

(以下・次回に続く)

 

 

 

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