嫌なことも我慢。

引きつらせながらの笑顔。
人のオモテの顔とウラの顔を知る。
 
 
それも大切なこと。
 
つまづくであろう石を除けてもらってばかりでは、「避ける」ことも、「つまづいた痛み」も知ることはできない。
 
 
 
最近、「若い時の苦労は買ってでもしろ」と両親に言われたことを、噛み締めています。
まこぱんだです。
 
 
 
我慢強さって時には必要。
でも、それが時に…仇になることがある。
 
「好き」であることを素直に受け入れられなくなる。
 
相手の顔色も伺ってしまうのだ。
言いたいことを飲み込むのは、嫌われたくないから。
自分を出して、嫌な顔をされたくないから。
どこかで「偽(いつわり)」をしてしまう。
 
 
ある面では、やさしさ。
人の為であること。
相手の為に抑える、制御する。
 
一方で、いつわり。
相手の為としながら、自分の気持ちに嘘をつく。
 
 
 
それを繰り返して行ったら、自分の「好き」を受け入れたいのに自分の中で受け入れられず、ずっと「叶わぬ夢」として語りつないでいく。
 
これがしたかったのに。
あれが好きだったのに。
 
その人生を選ぶのも、自分自身。
誰かが「あなたはこの道を歩みなさい」と言って無理にそこに連れて行ったわけじゃない。
今起きていることも、全て、自分が決めたこと。
 
 
そろそろ、悲劇のヒロイン(男性だったら、ヒーローでいいのかな)をやめたら?
自分だけで終わればいいけれど、悲劇のヒロインもやっぱり「観衆」が必要なの。
実は、「わたしなんて」「わたしはいいから・・・」とやっている人ほど、周りを巻き込んでいる。
 
大変ねと助けを出してもらっても、それに乗らずに相変わらず沈没しそうな船にしがみつき、
相手が親身になればなるほど、深みにはまらせていく・・・ということ、あるんじゃない?
ともに助かろう、ではなく、ともに沈もう、を選んでいる。
 
 
あなたがもう我慢する必要がないのなら。
そろそろ、自分の「好き」を素直に受け入れませんか?
 
そのためには不要なことを自分から切り離して、あなたがまずはご機嫌でいられるように。
自分の気持ちに素直になろうとしないから、今の状況を嘆くだけで結局何も変わらない。
だったら、自分の好きな事を受け入れることからはじめてみたらどうよ。
 
 
 
自分の気持ちは、自己責任です。
誰も助けてはくれないし、助けられません。
聞いてもらっても、解消するのは自分のみ。
 
好きだけど…
嫌いだけど…
 
でも、と言っている時点で責任を自分から切り離している。
 
 
状況は、自分の意思が作り上げている。
まるで手のひらの上に乗っているかのように。
自分への責任から逃れていたら、いつまでも同じことを繰り返すだけ。
 
 
 
そろそろ、本氣出す?
好きなことに、本氣出してみる?
 
 
大きく状況は変えなくても、本氣出すと決めただけでも、見えてくる世界は変わってくるものよ。