人から見たらしょーもないことでも、自分では気になって仕方がないことがある。


うん、今でもある。



美人と比較され続けた過去。

人って残酷だなって子ども心に刻まれたことが今でも残ってる。


そりゃあ美人と比較されたら勝てませんよ。

それが他人だったならまだよかった。


自分の母親と比較されてましたから。


「お母さんキレイね~」と言われるのは嬉しかったんだよね。

「妹さん、カワイイね~」と言われるのも嬉しかったんだよね。



ただ、中にはいるんだよ。

「似てなくてかわいそう」

「なんでこんな顔に生まれたのかね」

(悪かったな、こんな顔で)



あげくに

「母親が違うんじゃないか」

って。


そこまで言う?ってことを言われた過去。

そんなことを大人に言われたなんて親には言えなかったよ。さすがに。



自分ではその時その時に乗り越えてきたつもりだったけれど、実は化石になってた。

全然乗り越えてなかった。



そんなにまで言われるほど、自分の顔はひどいものなのか。

見るに堪えられないものなのか。

親や親せきが何も言わないのは、せめて私を傷つけないためなのか。


子どもの頃の自分を振り返ると、今に比べて相当疑心暗鬼。

でもそれを表には出さない子どもだった。


言っても仕方がない。


ブスに生まれたんだから、それなりの生き方をすればいい、って思ってたし。

大人になって、どうしてもこの顔が嫌だったら整形すればいいし。


でもなぁ。私、父親と仲が良くて。

反抗期のときは反発もしたけど、その父に似ている顔をいじれるか、と思ったらそれもできない。


化粧してもたいしたことないし。



なら、せめて「性格美人」目指そうかとか、自分が頑張れるところで頑張るかとか。

できるところから努力をしてみて・・・


そう思うと頑張ってきたのね、自分。

(ちょっと自分を慰めてみる)



なんでだろうね。子どもの頃にほめられたことって他にもあるはずなのに、「かわいい」と言われなかったことで帳消しになるなんてことはないはずなのに。


それだけ「かわいい」というフレーズは子どもの心にダイレクトに響くのかもしれないね。

女の子は小さくても「女」なんですね。

「かわいい」(大人になったら「美人」)というのは、努力しても届かないものだってどこかで思い知らされるからなのかもしれない。



今でも、残酷なことを言う人はいると思うし、特に露骨な男性もたくさんいると思う。

別にモテたいわけではなく、自分に自信を持ちたいんだ。

目が小さかろうが、鼻が低かろうが、 「これが私だ!」 と。


そして、残酷ではない人もいるし、露骨ではない男性もいるんだよ、って自分自身に言い聞かせたい。

足をひっぱる女性も多いけれど、そんな人ばかりじゃないんだよ、とも。



乗り越えてなかったことをヒシヒシと感じたけれど、同時に「自分、頑張ってきたじゃない!」とも思えた。


勉強だって、仕事だって、習い事だって、自己啓発だって。


その頑張ってきた自分を活かさなきゃもったいないよ!

そう思えるようになってきた。



「自分の中を見つめて、古い枠をぶっ壊せ!」


今、私の中ではその言葉で満たされている。