久々に何か書きたくなるモチベーションが湧いてきました。
安保法制が衆議院で採決された。これについて。
まず、いわゆる集団的自衛権を、解釈改憲で認めてしまって、例えばイラク戦争とかも行こうと思えばいけてしまう、ということについては、国際情勢の観点からは行くべきだ、という場合もあろうが、さすがに、立憲主義の観点から、せめて選挙で問うぐらいはしておかないと、という感覚は僕にもあった。
というわけで、まず、法律がどんな内容か確認してみる。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/15/security-law-wakariyasuku_n_7806570.html
ちなみに、以下はわかりやすかった。
http://www.taro.org/2015/07/post-1619.php
いわゆる集団的自由権という、つまり、イラク戦争についても、日本もアメリカ軍の友軍として参加できるようにする、っていうのは、手続きなしにやるのはまずいと思うが、中身を見る限り、実はそういう法制では全然なくて、いわゆる今までの自衛権発動の3要件に変えて新3要件というのを作り、特に要件一について、以下のように変更する、というのが、いわゆる「集団的自衛権」に当たるので問題じゃないか、という話のようだ。
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」
この文章だけみると、朝鮮有事で、日本防衛の為にアメリカ軍が動いているときに、そこに対して攻撃があった、ということとか、が思い浮かぶ。これだけみると、こんなの認められて当たり前じゃないの?という気がする。こんなの別に、いわゆる集団的自衛権ではなく、単に個別的自衛権の延長だと思う。そして、河野さんのブログにある通り、全然合憲だと思う。
今回の件で、立憲主義の否定、といっている、という事自体、野党も、憲法学者も、メディアもおかしいと思う。もっと自分の頭で考えるべきだろう。
まず、自衛隊がなんで、合憲、という解釈になっているか、というと、①国際法上、個別的、集団的自衛権は、国家固有の権利であり、日本もこれは持っている、②憲法が保障する生存権、幸福追求権を守る為の「必要最小限の」武力は、憲法9条が否定する「戦力」に当たらない、という事らしい。つまり、合憲性の判断は、「必要最小限」かどうか、ということになるが、上記だけみると、全然合憲だろうと思う。また、これは、僕の解釈だが、憲法も法律も、テクニカルに条文を解釈しようとするより、その法の趣旨を解釈する、という事の方が正しく、まず、プラクティカルには自衛隊は持たねばまずかろう、というところはあるが、一方、そうすると、9条をあまりにも無視しすぎ、完全の立憲主義を否定することになってしまい、いわゆる9条の平和主義の趣旨を活かし、何かしらの歯止めをかけねばならない、という趣旨で、武力行使を「必要最小限」として、その具体的内容は「個別的自衛権のみ」と解釈している、という事だろうと思う。であるのあら、新三要件は、この趣旨を全く害するものではなく、「広義の個別的自衛権」とでもいう程度の内容であり、自衛隊が合憲なら、新三要件も普通に合憲だろう。
(ちなみに、僕は、憲法を素直に読めば、自衛隊自体違憲だと思っている。憲法学者も多くの割合で違憲論をとっているそうだ。が、一方、今の自衛隊を持つこと自体は僕は適切なことだと思っている。つまり、アメリカに与えられた「妾の憲法」など、そもそもやめるべき、という改憲派で、一方、それが難しければ、統治行為論、といういわゆるごまかしでなんとでもしてしまえばいいんじゃないの、という気持ちもある。一方、いわゆる平和主義自体は、広く国民の支持を受けているので、慣習的にも国民の合意された原則とみなしていいので、この趣旨を手続きなしに変える考えはまずかろうと思う。政府は、自衛隊を、幸福追求権を前提に合憲、としているので今回はそれに合わせる。)
ココでおかしいと思うのは、まず、憲法学者だ。上記は少なくとも、それなりの筋のある一つの解釈といえる、が、100人以上の憲法学者の内、合憲論者は2人しかいない、というのは、明らかに不自然だと思う。自民党が合憲性を専門家に判断してもらったところ意見、と判断され、仰天したのもそれはそうだろうと思う。まあ、学者の中には自衛隊違憲論の人も結構いて、その人が、違憲説をとるなら、それはそれで論理的な整合性はある。ではなくて、自衛隊が合憲、と言っている人が、新三要件は違憲、といっているのは、よくわからず、その人の説が聞いてみたい。
以下で違憲論の解釈が提示されている。それはそれでよいのだが、自衛隊合憲、を前提とするなら、100%違憲論が説得的、というほどでは全然ないと思う。
http://thepage.jp/detail/20150616-00000008-wordleaf
この理由について、合憲論の百地章教授は、日本の憲法学会で、集団的自衛権=違憲、という説を採らないと、異端扱いされる為、とのことで、筋ある論理の割に支持が少ないことを考えると、そういう状況説明にも一つの説得力があるように思える。つまり、自分の学問的信念をもって、異なる意見を戦わせることで、理論を昇華していく、という学問のあるべき姿から著しく逸脱しているように見える。重要影響自体、国際平和共同対応自体、については、いろいろ意見があろうが、過去認めてきた経緯を考えると、今回特別にNGにする理由はない。合憲説を採れ、と言っているわけでない。あまりに、違憲説ばかり、ということが不自然だ、ということをいっている。
あともう一つ思ったのが、憲法学者の役割とは何か、ということ。今ある憲法を前提に、その合憲性を論じるのが憲法学なのか。それとも、国家の原則がいかにあるべきか論じることが憲法学か?僕が大学で習った憲法学は、前者といっていい。だとすると、今の平和主義、をまず前提として、それに対して解釈論を戦わせるのが使命となり、今の国際情勢に鑑みあるべき規範を提唱するのは、主な役割ではなくなる。そうすると、条文の解釈論だけしてもらえばよく、あるべき国防政策などに口を出されても困り、逆に、そこは、国際政治学者や国防関係者などが判断すべきだろう、が、ここで、専門外の国際情勢の事まで、専門外にも関わらず意見しているのが気に入らない。本来国際情勢や外交関係から判断しなければならず、その専門で内にも関わらず、憲法学、という狭い世界の専門性のみで判断しようとすること自体、専門を混同しており、無知で傲慢と映る。「自分は、国際情勢や外交関係の専門家ではないが」と前置きした上で、憲法学上の見解を提示頂くのはいいと思うが、半端に国際情勢を語ったり、憲法学が世界の全てと勘違いされても困る。
一方、国家の原則がいかにあるべきか、について、論じるのが憲法学、というのが、本来あるべき姿で、アメリカなんかは、そうしたところはもっとあるんだろうと思う。アメリカとは人工国家であって、無の状態から、王政でも封建制でもない、「共和制」を打ち立てたものであり、その原理を記した「憲法」というのは、歴史的にもアメリカそのものである、と言っていいし、かつ、それだからこそ、自分たちの原則を時代に合わせて自分たちで論議して変えていくことを当然と考えており、まさに、憲法=Constitution=国を構成するもの、ととらえている。合衆国憲法に関する議論では、ハミルトンは、マディソン、ジェイ、と共に、自分の考えを新聞に投稿し、世論に訴え、アメリカを連邦制へ導いており、制定過程から、いかに理想の政体を作り、衆愚政治を避けるか、という情熱と熟慮があり、物語がある。これは、外国に、ないとおかしかろう、と言われてとりあえずそれっぽいのを作ってみたり、という帝国憲法や、敗戦で押し付けられた、とかいう日本国憲法、とは全くは捉え方が違う。(ちなみに、憲法、って訳も、抽象的すぎ、国家原理、国家原則、等と訳した方が、本義には合うと思う)。この前同性婚を禁止するのは違憲、という判決がアメリカ最高裁で出たが、最高裁判決で、人々の生活に影響を及ぼすような一般原則が変更される、ということも、やはり違うと思う。日本だと、統治行為論で逃げるのが常道であり、なんというか、憲法に対する物語や力強さがない。アメリカでは、自分たちの国は、どうした原則を基盤とすべきか、という議論が先にあって、条文はその後にできる。日本の場合、条文を宗教、所与のもの、ととらえ、教義に合致しているか言葉遊びをしているだけという感じがする。そもそも、今の憲法の原理は、「個人の尊厳」で、それがあって、「国民主権」、「基本的人権尊重」、「平和主義」があるが、その発想自体、日本の歴史伝統からでたものでなく、外からの借り物からきてるので、そんなものを、所与のものととらえて議論を始めるから、空虚に響いてしまう。(なお、帝国憲法の根本原理は、「国防」にあると僕は理解している。それはそれで、なぜ明治維新をしたか、というと、究極、如何に植民地化されるのを避けるか、ということにあったのだから、こちらの方が、まだ歴史的文脈に即している。)憲法学やるのなら、日本国憲法から始めることがそもそもダメだと思う。やるなら、合衆国憲法がよく、それと比べて、日本の国にどうした国家原則があるべきか、それがどう運用されるか考える、というのが本来の憲法学であるべきだろうと思う。本来憲法学ってどうあるべきだろう、と考えたとき、現代憲法の開祖、アレクサンダー・ハミルトンならどう考えるだろう、と考え、この結論に至った。彼なら、あるべき国家原則について自ら考え論じる前に、不磨の大典ありきで論じていること自体にバカバカしいと考えるだろう。
さて、平和主義に関して、憲法学者が本来考えるべき、あるべき国家原則とは何だろう。ある憲法学者が、戦争の経験の反省から生まれた平和主義を、日本国家の確固たる信念として高らかに宣言すべきだ、と信じるのは別によく、これ自体、国民の総論としてあっていると思う(実は、僕自身は、ちょっと違う意見だが、それはとりあえず置くとする)。その場合、真に憲法学が論じるべきなのは、
① その信念と、現実的な武力の必要性との間でどのようなバランスをとるべきか、
② 憲法は、どれほどの程度で行政府、立法府を拘束すべきか、
③ 立法府と司法の役割分担、違憲立法審査、
という点ではないかと思う。
①こそ、まさに本来一番熟議される論点だと思う。原則外国に対して武力を使わない、が、
1)国防:中国の軍事力の増大や北朝鮮に対しては備えねばならない、
2)同盟の片務性:現実的に、「同盟」という手段を選択しており、アメリカから見れば、日本は勝手なポリシーとかで、一方的に守ってもらうだけ、というのでは説得的ではなく、逆に変な役回りだけやらされて損なのでどうするか、
3)国際平和活動への参加:紛争の予防等の活動への参加、
については、あるべき姿を検討してしかるべきであり、集団的自衛権だからNGなどというのは、本末転倒な議論だと思う。
1)については、広義にいえば個別的自衛権であり、今回の安保法制事態については余計にそうで、テクニカルに集団か個人かといった論議自体くだらないと思う。そして、今回の新三要件はここが憲法上一番の論点となっているとのこと。
2)、3)についてだが、ここは少し色のある意見を出すが、要はそれが短期長期的な国益につながるか、ということを基準に評価すべきだろう、と思う。2)については、アメリカにつき合わされて世界中に戦争死に行くのは割に合わず、かといって、一方的に守ってやってるんだぜ、とでかい面されて損を負わされないようにするにはどうするか、具体的にイラク戦争への支援を断れるような要件は考えねばならないと思う。ドイツとかは断っててそれが正しかったので、同じことは日本でもできるべきだと思う。一方、南シナ海での中国の拡張については、主戦場が東シナ海になる前に、断固対抗すべきなので、海洋秩序を害する行為、とか言って、アメリカを巻き込んで、断固対抗する、ということができるようにすべきだろうと思う。(パリ不戦条約よりも、ラインラント進駐に対する断固たる態度の方が、平和を守った、ということ。僕などは、可能な限り長く、日米と中国の勢力均衡を保ち、その間に、人権問題などで、中国を攻撃し、内部から分裂を誘う方が、長期的な東アジアの平和に資するとさえ思っている。中国の興隆はまさに世界大戦を引き起こしたドイツ帝国の成立と極めて似ているし、経済成長地域で紛争が起こりやすいのも国際政治の一般理論。また、一人当たりの年間所得が3000ドル超えるあたりで、独裁政権は倒れやすい、という理論もあり、特に、経済成長が鈍化している中国はこれからどうなるかわからず、その後に生まれる中国が民主主義国家である場合、民族主義国家でもあり、特に、これが統一国家となり日本に対峙するという状況は一番避けたい。つまり、ボケっとしてたら紛争は起こるものだ、と仮定する方が科学的だ。日本は、リシュリュー枢機卿に学ぶべきだと思う。)そのために、どうした要件があるべきかはテクニカルな問題だ。憲法の制限と行政の判断のバランスの話は、②に譲る。後、従米法案とかいうが、一方的に守ってもらうのも、さすがに説得的でないよね、と相手のいう事を考慮するなんて当たり前のことで、ただ、イラク戦争につき合わされたらかなわんので、吉田茂が朝鮮戦争への参加を断った論法を用いて、憲法を盾に、如何にこれを避けるか、は知恵の出しどころ。
3)については、例えば国連の平和維持活動なんかは、シンガポールとか、アルバニアとかでさえ、参加してることで、彼らがなんで参加しているのかというと、いざやばくなったら逆に助けてもらうように普段から義務を果たしている、ということで、さすがに、世界三位の経済大国が、ここで出てこないのはまずかろうし、それ自体問題ないと思う。予防的に、少量の武力行使を前提とした警察力は、確か、紛争予防の最も効果的なやり方の一つなので、これ自体大事なこと。が、昔のボスニアや今のシリアなど、どちらが正義か悪かもわからないところで、何かしら警察力=武力を使わざるを得ない状態は想定され、そこはどうなのか、というところ。自警団を作り、共同で村を防衛しているが、僕は宗教上の理由で、戦えません、というのはありなのか?一方、バカ正直に、赤の他人の秩序を守る為に、日本がしゃしゃりでていくことが、いいことなのか。ここはいろいろ意見があるところだろうが、こうした活動には参加することに意味があり、バカ正直になるのも損だと思うので、やはり憲法を盾になるべく避けるのが上策だと思う。一方、武力を使わないことを信念にしているからこそ説得力を持つ場面も出てくるだろうから、例えば、中東では白人は基本信頼されないが、白人に対してかつて戦い、今は全然戦争していない日本の方が説得的だと、麻生太郎さんもいっているが、そういう独自の位置づけは持てるのでそれもありだと思う。
2)、3)については、色のある意見を書いたが、その意図の一つとして、憲法9条ありき、それとずれてないか、じゃなく、要は国益上得か損か、という違うフレームで検討すべき、ということを提示したかったというところもある。
②も重要だ。先に結論を書くと、憲法、という国家原則、基本法で、具体的な制限を課すのは避けるべきで、ある程度の行政府、立法府の裁量があり、その裁量範囲が、限度を超えるかどうか、で枠をはめるのが憲法の機能なので、自衛権についても「総合的に判断する」のは当然で、存立危機条項が制限の役割を果たしているか、については、十分すぎると思われ、僕なんかは、逆にきつすぎるんじゃないの、とさえ思う(公明党が頑張ったんだろう)。言いたい事は、裁量範囲と制限のバランスの論議が全然ないこと。維新の案は、ある意味わかりやすく、一つの案だと思うが、裁量についての考慮がないので、プラクティカルに良くないと思う。これこそ、憲法の機能をわかってないんじゃないの、と言いたい。あるいは、あえて憲法で狭めすぎるのは、あるべき国家原則、という主張なのか。安保法制の中の、反論として、存立危機条項の定義があいまい、という批判は、批判の中では、論理的にまだまともな方だと思うが、今までの内閣法制局の解釈との整合性ありきの議論で、裁量範囲の考慮がなく、憲法よくわかってないと思う。
③についても、別に立法府が、違憲立法をしても別にそれは、原則論として問題ではないのではと思う。その為に違憲立法審査制度があり、合憲性を論じるなら、そこで判断すればよい。それが、立憲主義が想定したメカニズムだ。そもそもこのメカニズムを使わないで、内閣法制局がその機能を果たしていること自体、いかにも日本的だが、内閣法制局には、それを行う権力の正統性等ないのだから本来おかしい。立法府は、合憲性など過剰に気にしずぎず、世の中にとってそれが必要かどうかだけ論じればよい。日本の違憲立法審査権は、訴えの利益がないと、棄却されてしまい、それゆえに機能しない、という話についてはよくわからないが、でも、まあ、国民も税金払ってるし、自衛隊など派遣されるのだから、益ある訴えのチャンスなどいくらでもある気がする。フランスで、(なぜか)アルメニア人の虐殺を否定する言動に罰を与える法案が、可決されたが、憲法裁判所で、否定されたらしい。これは、そもそもフランスがよそ様のトルコに対してとやかく言うのもヘンな話で裏の意図は、トルコのEU加盟の妨害だったので、フランス人がいかにトルコがEU加盟するのを嫌がろうが=立法府がアルメニアのウソ法案を通そうが、それは大衆迎合で、フランスの国家原則に反するからNG、つまり、立法府、というのは、時の情勢に左右されやすく、時に迎合的な法案もとおってしまうことを想定し、それを有効にさせない為に機能している、という、というまさに、憲法裁判のあるべき機能を示したモデルケースに見えてしまう。例えば、従軍慰安婦を性奴隷とするような言動に罰則を科す、などという愚かな法律を立てれば(僕は、その言動自体に大きく反対だがにもかかわらず)、違憲立法審査でつぶされてしかるべきだろう。と考えると、実質的には、違憲立法審査の想定ケースは、立法府が迎合的に愚かな法律を制定した場合であるが、今回の安保法制については、そうではなく、大衆の反対に抗して、国家にとって必要と考える法律を制定しようとしているのであり、迎合的で国家原則に反しないか、という基準には該当せんだろう。さておき、言いたい事は、合憲性の判断は、司法が行えばいいこと、それが立憲主義、ということ。この辺も、憲法違反の法律を、行政が出そうとしているから立憲主義に反する、というのは、憲法違反でもないし、出すこと自体が立憲主義に反するわけでも別にないので、レッテル張り、と批判されても仕方あるまい。
憲法の話はこれぐらいにする。
次に野党とメディア。
まず、いろいろ見て思うのが、内容を正確に理解して、意見表明しているケースが少ない、ということ。戦争法案、とか、集団的自衛権行使容認、(実際には、「限定」行使容認で、個別的自衛権の延長に過ぎない)、徴兵制、とか、法律の中身だけみると、なんでそんな解釈になるのか、訳が分からない。野党の場合、結構戦術的にこれをやっている気がしており、政治に謀略はつきものとはいえ、政争の具としているきらいがある。民主党の、「近くは現実的に、遠くは抑制的に、国際貢献は積極的に」という原則も、維新案も、はっきり言って、骨格はそれほど違ってないと思われ、基本的な方向については、代議士達が合意している、と見るのが自然だろう。が、与党案に対して、ちょっとした違いを出して、その際を強調して、自分は与党に反対であることを印象付け、存在感を示しているだけだと思う。そして、その方向は、より制限的な内容を出すことが正義、という発想となる。ベトナム戦争時、キッシンジャーは、あまりの国内の反対運動、それにつられる議会に動揺し、大統領に、「計画の概略を議会に説明し、賛成か反対か問い、議会に責任を取らせるしかない」と進言したのに対して、ニクソン大統領は、それは大統領としての責任放棄である、議会というものは、存在感を示す為に無意味な修正を強い、問題を余計に複雑化される結果にしかならない(「これはほぼ正しい」とキッシンジャー)、という二つの理由で拒否したとのこと。議会の中で、本質的な論点、つまり平和主義の時代に合わせた調整、という議論ではなく、集団的自衛権だから悪い、とか、説明の仕方がよくない、とか、本筋から外れる議論や、もっとひどいのは、戦争法案、徴兵制、など、実態とは全然異なるレッテル張りの繰り返しをしている、というのは、野党としてもひどいと思う。
民主党でも、以下の長島さんの反論は、まともな反論だと思う。本来議論されるべき内容の指摘についても妥当だ。
http://blogos.com/article/123221/
長島さんは、安保法制について、1)合憲性、2)自衛権の範囲、3)自民党の対応、4)議論全般の雰囲気、について、1)合憲、2)より抑制的であるべき、3)あいまいでダメ、4)情緒的でダメ、2)こそ論じるべき、という主張だ。このように反論にもいろいろあり、1)違憲、2)国際情勢を考えれば頼広べるべき→だけどちゃんと手続踏もうよ、という意見や、小泉進次郎さんは、1)、2)は、OKと多分言っていて、3)がダメ、といってたりする。尚、僕は、1)合憲、2)より拡張的、柔軟であるべき、3)何とも言えない、4)馬鹿じゃないの、という意見だ。が、多くの反論は、なんだか全部ごちゃまぜにしており、論点を上げて論じるのではなく、戦争法案、徴兵制など、レッテル張りを繰り返し、メディアに向けての印象づくりに精を出しているのはひどいと思う。
維新案も、まず、より抑制的であるべき、という事自体一つの考えの提示だが、まず、出すのが遅いし、存立危機条項等、今でさえも相当抑制的な条項に対して、痛くもない腹をことさら大きく論じて、ちょっとした違いを出して、存在感を示し、結果混乱を助長しているだけなので、くだらないと思う。
メディアについては、総じてみると、内容を正確に伝えるよりは、今日は誰が反論しました、とか、レッテル張りを印象的に主張している人をクローズアップして出したり、賛成反対の結果の二元論を提示し、なぜ賛成か反対か、と解説していないことが多く、これもひどいと思う。メディアというのは要は視聴率や発行部数が勝負だから、彼らのメジャメントは、それが正しいか否か、でなく、如何に盛り上がったか、が重要なので自然そうなる。が、「総じて」と書いたのは、よく見ると、結構冷静な論評もまああるので、全部が全部、衆愚政治を推進している、という訳じゃないのもそれはそれでわかる。特に、個人的な偏見がないとは言えないだろうが、朝日・毎日・東京の各誌は、誰が何人反対している、とか、ともかく反対している、という事実を報じたり、具体的な論点をあげないで、戦争法案だからダメ、と主張したり、そうしたよく調べてなくて発言してる人の言葉を引用したり、としており、結構ひどいと思う。まず、法案の中身を正確に知りたい、という要求に対してこれら各誌はまず答えてくれない。それ以外にも、明らかに中身調べてないのに、発言してみたり、安倍政権に対する罵詈雑言とか、こんなの公共の場で発表しちゃっていいんですか、という言動まで結構普通に氾濫してて、これもちょっと異常事態だと思う。まともっぽい説明でも、中国の強大化、北朝鮮の脅威に対応して、とかあるけど、正直今回の安保法制のどこがそうなってるのかもよくわからない。中身を細かく解説する説明は、多分受けないから、それほど出さないのだろう。しかし、池上彰さんの成功は、ニュースをわかりやすく解説することがエンターテイメントになることを実証したことにあると思うが、同じ手法をもっとほかのメディアも挑戦してもよいと思う。(が、今回は、池上さんは、反対の様子、うーん、というところ。)
そして、これら、憲法学者、野党、メディア合わせた雰囲気だけみると、受動的な市民なら、「安倍政権は強権的」だから、(中身よく見てないけど)安保法制反対、内閣支持率低下、となるのだろう。
という訳で、学問的信念ではなく、学閥に囚われる憲法学者、議論を捻じ曲げ、存在の主張に汲々とする野党(これはまあ政争なので多少は許す)、論理よりも、雰囲気を盛り上げるだけのメディア、等今回の騒動全般に見てひどいと感じる。
最後に、大衆の過半数が反対する内容を進めることは民主主義に反するか、という点。僕は反しないと思う。これが間接民主主義だろう。本来の判断基準は如何に国益に資するかであり、大衆の支持は、その資本になり、また、結果の一つでもあろうが、目的ではなく、そうあるべきでもない。民主主義の最大の欠点は決まらない政治に陥ること、大衆の雰囲気に政治が流されることであり、だからこそ、あえて代議士制にしており、これは、古代の物理的制約、という以外に、判断する賢人を選んでその人に判断してもらった方がよい秩序が生まれる、という考えに基づいている。
また、客観的に、安保法制通すことは、自民党の利益にはならないだろう。アメリカに褒められるから利益だ、とかいうが、支持率は下がるのは明白だし、それで政権渡したら、アメリカに褒められても意味がない。大衆の支持を得て、議席を確保したい議員は、なぜ安倍首相に反旗を翻さないのか。野党と同様に、公認を外されない程度に、穏当な反対意見を述べて、正義の味方グループに入る方が彼らの生存にとってはプラスではないかと思う。安保法制というのは、武力行使を拡張する方向にあるのだから、内容いかんにかかわらず、こういう議論が大好きな朝日新聞など各方面から、攻撃を受け、内閣支持率も下がるに決まっており、明らかに彼には損であり、安倍首相もこれを見通せないほど間抜けではなかろう。が、にも関わらず、何故、それを実行したか、というのは、やはり、内閣総理大臣としての使命感や誇り、といったロマンがあったのではないかと思う。そしてそれには、当然、安保改定を強行した、岸信介首相の信念が勇気を与えているのだろうと思う。勇敢な姿勢だ。内閣支持率がまだ高く、行動の自由がある内にこれを実施したのも、適切なことだろう。また、世論調査に迎合しない、ということは、一流の民主主義の指導者に不可欠の要素だ。安倍首相は、決める政治、を行ったのだ。
安保法制が衆議院で採決された。これについて。
まず、いわゆる集団的自衛権を、解釈改憲で認めてしまって、例えばイラク戦争とかも行こうと思えばいけてしまう、ということについては、国際情勢の観点からは行くべきだ、という場合もあろうが、さすがに、立憲主義の観点から、せめて選挙で問うぐらいはしておかないと、という感覚は僕にもあった。
というわけで、まず、法律がどんな内容か確認してみる。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/15/security-law-wakariyasuku_n_7806570.html
ちなみに、以下はわかりやすかった。
http://www.taro.org/2015/07/post-1619.php
いわゆる集団的自由権という、つまり、イラク戦争についても、日本もアメリカ軍の友軍として参加できるようにする、っていうのは、手続きなしにやるのはまずいと思うが、中身を見る限り、実はそういう法制では全然なくて、いわゆる今までの自衛権発動の3要件に変えて新3要件というのを作り、特に要件一について、以下のように変更する、というのが、いわゆる「集団的自衛権」に当たるので問題じゃないか、という話のようだ。
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」
この文章だけみると、朝鮮有事で、日本防衛の為にアメリカ軍が動いているときに、そこに対して攻撃があった、ということとか、が思い浮かぶ。これだけみると、こんなの認められて当たり前じゃないの?という気がする。こんなの別に、いわゆる集団的自衛権ではなく、単に個別的自衛権の延長だと思う。そして、河野さんのブログにある通り、全然合憲だと思う。
今回の件で、立憲主義の否定、といっている、という事自体、野党も、憲法学者も、メディアもおかしいと思う。もっと自分の頭で考えるべきだろう。
まず、自衛隊がなんで、合憲、という解釈になっているか、というと、①国際法上、個別的、集団的自衛権は、国家固有の権利であり、日本もこれは持っている、②憲法が保障する生存権、幸福追求権を守る為の「必要最小限の」武力は、憲法9条が否定する「戦力」に当たらない、という事らしい。つまり、合憲性の判断は、「必要最小限」かどうか、ということになるが、上記だけみると、全然合憲だろうと思う。また、これは、僕の解釈だが、憲法も法律も、テクニカルに条文を解釈しようとするより、その法の趣旨を解釈する、という事の方が正しく、まず、プラクティカルには自衛隊は持たねばまずかろう、というところはあるが、一方、そうすると、9条をあまりにも無視しすぎ、完全の立憲主義を否定することになってしまい、いわゆる9条の平和主義の趣旨を活かし、何かしらの歯止めをかけねばならない、という趣旨で、武力行使を「必要最小限」として、その具体的内容は「個別的自衛権のみ」と解釈している、という事だろうと思う。であるのあら、新三要件は、この趣旨を全く害するものではなく、「広義の個別的自衛権」とでもいう程度の内容であり、自衛隊が合憲なら、新三要件も普通に合憲だろう。
(ちなみに、僕は、憲法を素直に読めば、自衛隊自体違憲だと思っている。憲法学者も多くの割合で違憲論をとっているそうだ。が、一方、今の自衛隊を持つこと自体は僕は適切なことだと思っている。つまり、アメリカに与えられた「妾の憲法」など、そもそもやめるべき、という改憲派で、一方、それが難しければ、統治行為論、といういわゆるごまかしでなんとでもしてしまえばいいんじゃないの、という気持ちもある。一方、いわゆる平和主義自体は、広く国民の支持を受けているので、慣習的にも国民の合意された原則とみなしていいので、この趣旨を手続きなしに変える考えはまずかろうと思う。政府は、自衛隊を、幸福追求権を前提に合憲、としているので今回はそれに合わせる。)
ココでおかしいと思うのは、まず、憲法学者だ。上記は少なくとも、それなりの筋のある一つの解釈といえる、が、100人以上の憲法学者の内、合憲論者は2人しかいない、というのは、明らかに不自然だと思う。自民党が合憲性を専門家に判断してもらったところ意見、と判断され、仰天したのもそれはそうだろうと思う。まあ、学者の中には自衛隊違憲論の人も結構いて、その人が、違憲説をとるなら、それはそれで論理的な整合性はある。ではなくて、自衛隊が合憲、と言っている人が、新三要件は違憲、といっているのは、よくわからず、その人の説が聞いてみたい。
以下で違憲論の解釈が提示されている。それはそれでよいのだが、自衛隊合憲、を前提とするなら、100%違憲論が説得的、というほどでは全然ないと思う。
http://thepage.jp/detail/20150616-00000008-wordleaf
この理由について、合憲論の百地章教授は、日本の憲法学会で、集団的自衛権=違憲、という説を採らないと、異端扱いされる為、とのことで、筋ある論理の割に支持が少ないことを考えると、そういう状況説明にも一つの説得力があるように思える。つまり、自分の学問的信念をもって、異なる意見を戦わせることで、理論を昇華していく、という学問のあるべき姿から著しく逸脱しているように見える。重要影響自体、国際平和共同対応自体、については、いろいろ意見があろうが、過去認めてきた経緯を考えると、今回特別にNGにする理由はない。合憲説を採れ、と言っているわけでない。あまりに、違憲説ばかり、ということが不自然だ、ということをいっている。
あともう一つ思ったのが、憲法学者の役割とは何か、ということ。今ある憲法を前提に、その合憲性を論じるのが憲法学なのか。それとも、国家の原則がいかにあるべきか論じることが憲法学か?僕が大学で習った憲法学は、前者といっていい。だとすると、今の平和主義、をまず前提として、それに対して解釈論を戦わせるのが使命となり、今の国際情勢に鑑みあるべき規範を提唱するのは、主な役割ではなくなる。そうすると、条文の解釈論だけしてもらえばよく、あるべき国防政策などに口を出されても困り、逆に、そこは、国際政治学者や国防関係者などが判断すべきだろう、が、ここで、専門外の国際情勢の事まで、専門外にも関わらず意見しているのが気に入らない。本来国際情勢や外交関係から判断しなければならず、その専門で内にも関わらず、憲法学、という狭い世界の専門性のみで判断しようとすること自体、専門を混同しており、無知で傲慢と映る。「自分は、国際情勢や外交関係の専門家ではないが」と前置きした上で、憲法学上の見解を提示頂くのはいいと思うが、半端に国際情勢を語ったり、憲法学が世界の全てと勘違いされても困る。
一方、国家の原則がいかにあるべきか、について、論じるのが憲法学、というのが、本来あるべき姿で、アメリカなんかは、そうしたところはもっとあるんだろうと思う。アメリカとは人工国家であって、無の状態から、王政でも封建制でもない、「共和制」を打ち立てたものであり、その原理を記した「憲法」というのは、歴史的にもアメリカそのものである、と言っていいし、かつ、それだからこそ、自分たちの原則を時代に合わせて自分たちで論議して変えていくことを当然と考えており、まさに、憲法=Constitution=国を構成するもの、ととらえている。合衆国憲法に関する議論では、ハミルトンは、マディソン、ジェイ、と共に、自分の考えを新聞に投稿し、世論に訴え、アメリカを連邦制へ導いており、制定過程から、いかに理想の政体を作り、衆愚政治を避けるか、という情熱と熟慮があり、物語がある。これは、外国に、ないとおかしかろう、と言われてとりあえずそれっぽいのを作ってみたり、という帝国憲法や、敗戦で押し付けられた、とかいう日本国憲法、とは全くは捉え方が違う。(ちなみに、憲法、って訳も、抽象的すぎ、国家原理、国家原則、等と訳した方が、本義には合うと思う)。この前同性婚を禁止するのは違憲、という判決がアメリカ最高裁で出たが、最高裁判決で、人々の生活に影響を及ぼすような一般原則が変更される、ということも、やはり違うと思う。日本だと、統治行為論で逃げるのが常道であり、なんというか、憲法に対する物語や力強さがない。アメリカでは、自分たちの国は、どうした原則を基盤とすべきか、という議論が先にあって、条文はその後にできる。日本の場合、条文を宗教、所与のもの、ととらえ、教義に合致しているか言葉遊びをしているだけという感じがする。そもそも、今の憲法の原理は、「個人の尊厳」で、それがあって、「国民主権」、「基本的人権尊重」、「平和主義」があるが、その発想自体、日本の歴史伝統からでたものでなく、外からの借り物からきてるので、そんなものを、所与のものととらえて議論を始めるから、空虚に響いてしまう。(なお、帝国憲法の根本原理は、「国防」にあると僕は理解している。それはそれで、なぜ明治維新をしたか、というと、究極、如何に植民地化されるのを避けるか、ということにあったのだから、こちらの方が、まだ歴史的文脈に即している。)憲法学やるのなら、日本国憲法から始めることがそもそもダメだと思う。やるなら、合衆国憲法がよく、それと比べて、日本の国にどうした国家原則があるべきか、それがどう運用されるか考える、というのが本来の憲法学であるべきだろうと思う。本来憲法学ってどうあるべきだろう、と考えたとき、現代憲法の開祖、アレクサンダー・ハミルトンならどう考えるだろう、と考え、この結論に至った。彼なら、あるべき国家原則について自ら考え論じる前に、不磨の大典ありきで論じていること自体にバカバカしいと考えるだろう。
さて、平和主義に関して、憲法学者が本来考えるべき、あるべき国家原則とは何だろう。ある憲法学者が、戦争の経験の反省から生まれた平和主義を、日本国家の確固たる信念として高らかに宣言すべきだ、と信じるのは別によく、これ自体、国民の総論としてあっていると思う(実は、僕自身は、ちょっと違う意見だが、それはとりあえず置くとする)。その場合、真に憲法学が論じるべきなのは、
① その信念と、現実的な武力の必要性との間でどのようなバランスをとるべきか、
② 憲法は、どれほどの程度で行政府、立法府を拘束すべきか、
③ 立法府と司法の役割分担、違憲立法審査、
という点ではないかと思う。
①こそ、まさに本来一番熟議される論点だと思う。原則外国に対して武力を使わない、が、
1)国防:中国の軍事力の増大や北朝鮮に対しては備えねばならない、
2)同盟の片務性:現実的に、「同盟」という手段を選択しており、アメリカから見れば、日本は勝手なポリシーとかで、一方的に守ってもらうだけ、というのでは説得的ではなく、逆に変な役回りだけやらされて損なのでどうするか、
3)国際平和活動への参加:紛争の予防等の活動への参加、
については、あるべき姿を検討してしかるべきであり、集団的自衛権だからNGなどというのは、本末転倒な議論だと思う。
1)については、広義にいえば個別的自衛権であり、今回の安保法制事態については余計にそうで、テクニカルに集団か個人かといった論議自体くだらないと思う。そして、今回の新三要件はここが憲法上一番の論点となっているとのこと。
2)、3)についてだが、ここは少し色のある意見を出すが、要はそれが短期長期的な国益につながるか、ということを基準に評価すべきだろう、と思う。2)については、アメリカにつき合わされて世界中に戦争死に行くのは割に合わず、かといって、一方的に守ってやってるんだぜ、とでかい面されて損を負わされないようにするにはどうするか、具体的にイラク戦争への支援を断れるような要件は考えねばならないと思う。ドイツとかは断っててそれが正しかったので、同じことは日本でもできるべきだと思う。一方、南シナ海での中国の拡張については、主戦場が東シナ海になる前に、断固対抗すべきなので、海洋秩序を害する行為、とか言って、アメリカを巻き込んで、断固対抗する、ということができるようにすべきだろうと思う。(パリ不戦条約よりも、ラインラント進駐に対する断固たる態度の方が、平和を守った、ということ。僕などは、可能な限り長く、日米と中国の勢力均衡を保ち、その間に、人権問題などで、中国を攻撃し、内部から分裂を誘う方が、長期的な東アジアの平和に資するとさえ思っている。中国の興隆はまさに世界大戦を引き起こしたドイツ帝国の成立と極めて似ているし、経済成長地域で紛争が起こりやすいのも国際政治の一般理論。また、一人当たりの年間所得が3000ドル超えるあたりで、独裁政権は倒れやすい、という理論もあり、特に、経済成長が鈍化している中国はこれからどうなるかわからず、その後に生まれる中国が民主主義国家である場合、民族主義国家でもあり、特に、これが統一国家となり日本に対峙するという状況は一番避けたい。つまり、ボケっとしてたら紛争は起こるものだ、と仮定する方が科学的だ。日本は、リシュリュー枢機卿に学ぶべきだと思う。)そのために、どうした要件があるべきかはテクニカルな問題だ。憲法の制限と行政の判断のバランスの話は、②に譲る。後、従米法案とかいうが、一方的に守ってもらうのも、さすがに説得的でないよね、と相手のいう事を考慮するなんて当たり前のことで、ただ、イラク戦争につき合わされたらかなわんので、吉田茂が朝鮮戦争への参加を断った論法を用いて、憲法を盾に、如何にこれを避けるか、は知恵の出しどころ。
3)については、例えば国連の平和維持活動なんかは、シンガポールとか、アルバニアとかでさえ、参加してることで、彼らがなんで参加しているのかというと、いざやばくなったら逆に助けてもらうように普段から義務を果たしている、ということで、さすがに、世界三位の経済大国が、ここで出てこないのはまずかろうし、それ自体問題ないと思う。予防的に、少量の武力行使を前提とした警察力は、確か、紛争予防の最も効果的なやり方の一つなので、これ自体大事なこと。が、昔のボスニアや今のシリアなど、どちらが正義か悪かもわからないところで、何かしら警察力=武力を使わざるを得ない状態は想定され、そこはどうなのか、というところ。自警団を作り、共同で村を防衛しているが、僕は宗教上の理由で、戦えません、というのはありなのか?一方、バカ正直に、赤の他人の秩序を守る為に、日本がしゃしゃりでていくことが、いいことなのか。ここはいろいろ意見があるところだろうが、こうした活動には参加することに意味があり、バカ正直になるのも損だと思うので、やはり憲法を盾になるべく避けるのが上策だと思う。一方、武力を使わないことを信念にしているからこそ説得力を持つ場面も出てくるだろうから、例えば、中東では白人は基本信頼されないが、白人に対してかつて戦い、今は全然戦争していない日本の方が説得的だと、麻生太郎さんもいっているが、そういう独自の位置づけは持てるのでそれもありだと思う。
2)、3)については、色のある意見を書いたが、その意図の一つとして、憲法9条ありき、それとずれてないか、じゃなく、要は国益上得か損か、という違うフレームで検討すべき、ということを提示したかったというところもある。
②も重要だ。先に結論を書くと、憲法、という国家原則、基本法で、具体的な制限を課すのは避けるべきで、ある程度の行政府、立法府の裁量があり、その裁量範囲が、限度を超えるかどうか、で枠をはめるのが憲法の機能なので、自衛権についても「総合的に判断する」のは当然で、存立危機条項が制限の役割を果たしているか、については、十分すぎると思われ、僕なんかは、逆にきつすぎるんじゃないの、とさえ思う(公明党が頑張ったんだろう)。言いたい事は、裁量範囲と制限のバランスの論議が全然ないこと。維新の案は、ある意味わかりやすく、一つの案だと思うが、裁量についての考慮がないので、プラクティカルに良くないと思う。これこそ、憲法の機能をわかってないんじゃないの、と言いたい。あるいは、あえて憲法で狭めすぎるのは、あるべき国家原則、という主張なのか。安保法制の中の、反論として、存立危機条項の定義があいまい、という批判は、批判の中では、論理的にまだまともな方だと思うが、今までの内閣法制局の解釈との整合性ありきの議論で、裁量範囲の考慮がなく、憲法よくわかってないと思う。
③についても、別に立法府が、違憲立法をしても別にそれは、原則論として問題ではないのではと思う。その為に違憲立法審査制度があり、合憲性を論じるなら、そこで判断すればよい。それが、立憲主義が想定したメカニズムだ。そもそもこのメカニズムを使わないで、内閣法制局がその機能を果たしていること自体、いかにも日本的だが、内閣法制局には、それを行う権力の正統性等ないのだから本来おかしい。立法府は、合憲性など過剰に気にしずぎず、世の中にとってそれが必要かどうかだけ論じればよい。日本の違憲立法審査権は、訴えの利益がないと、棄却されてしまい、それゆえに機能しない、という話についてはよくわからないが、でも、まあ、国民も税金払ってるし、自衛隊など派遣されるのだから、益ある訴えのチャンスなどいくらでもある気がする。フランスで、(なぜか)アルメニア人の虐殺を否定する言動に罰を与える法案が、可決されたが、憲法裁判所で、否定されたらしい。これは、そもそもフランスがよそ様のトルコに対してとやかく言うのもヘンな話で裏の意図は、トルコのEU加盟の妨害だったので、フランス人がいかにトルコがEU加盟するのを嫌がろうが=立法府がアルメニアのウソ法案を通そうが、それは大衆迎合で、フランスの国家原則に反するからNG、つまり、立法府、というのは、時の情勢に左右されやすく、時に迎合的な法案もとおってしまうことを想定し、それを有効にさせない為に機能している、という、というまさに、憲法裁判のあるべき機能を示したモデルケースに見えてしまう。例えば、従軍慰安婦を性奴隷とするような言動に罰則を科す、などという愚かな法律を立てれば(僕は、その言動自体に大きく反対だがにもかかわらず)、違憲立法審査でつぶされてしかるべきだろう。と考えると、実質的には、違憲立法審査の想定ケースは、立法府が迎合的に愚かな法律を制定した場合であるが、今回の安保法制については、そうではなく、大衆の反対に抗して、国家にとって必要と考える法律を制定しようとしているのであり、迎合的で国家原則に反しないか、という基準には該当せんだろう。さておき、言いたい事は、合憲性の判断は、司法が行えばいいこと、それが立憲主義、ということ。この辺も、憲法違反の法律を、行政が出そうとしているから立憲主義に反する、というのは、憲法違反でもないし、出すこと自体が立憲主義に反するわけでも別にないので、レッテル張り、と批判されても仕方あるまい。
憲法の話はこれぐらいにする。
次に野党とメディア。
まず、いろいろ見て思うのが、内容を正確に理解して、意見表明しているケースが少ない、ということ。戦争法案、とか、集団的自衛権行使容認、(実際には、「限定」行使容認で、個別的自衛権の延長に過ぎない)、徴兵制、とか、法律の中身だけみると、なんでそんな解釈になるのか、訳が分からない。野党の場合、結構戦術的にこれをやっている気がしており、政治に謀略はつきものとはいえ、政争の具としているきらいがある。民主党の、「近くは現実的に、遠くは抑制的に、国際貢献は積極的に」という原則も、維新案も、はっきり言って、骨格はそれほど違ってないと思われ、基本的な方向については、代議士達が合意している、と見るのが自然だろう。が、与党案に対して、ちょっとした違いを出して、その際を強調して、自分は与党に反対であることを印象付け、存在感を示しているだけだと思う。そして、その方向は、より制限的な内容を出すことが正義、という発想となる。ベトナム戦争時、キッシンジャーは、あまりの国内の反対運動、それにつられる議会に動揺し、大統領に、「計画の概略を議会に説明し、賛成か反対か問い、議会に責任を取らせるしかない」と進言したのに対して、ニクソン大統領は、それは大統領としての責任放棄である、議会というものは、存在感を示す為に無意味な修正を強い、問題を余計に複雑化される結果にしかならない(「これはほぼ正しい」とキッシンジャー)、という二つの理由で拒否したとのこと。議会の中で、本質的な論点、つまり平和主義の時代に合わせた調整、という議論ではなく、集団的自衛権だから悪い、とか、説明の仕方がよくない、とか、本筋から外れる議論や、もっとひどいのは、戦争法案、徴兵制、など、実態とは全然異なるレッテル張りの繰り返しをしている、というのは、野党としてもひどいと思う。
民主党でも、以下の長島さんの反論は、まともな反論だと思う。本来議論されるべき内容の指摘についても妥当だ。
http://blogos.com/article/123221/
長島さんは、安保法制について、1)合憲性、2)自衛権の範囲、3)自民党の対応、4)議論全般の雰囲気、について、1)合憲、2)より抑制的であるべき、3)あいまいでダメ、4)情緒的でダメ、2)こそ論じるべき、という主張だ。このように反論にもいろいろあり、1)違憲、2)国際情勢を考えれば頼広べるべき→だけどちゃんと手続踏もうよ、という意見や、小泉進次郎さんは、1)、2)は、OKと多分言っていて、3)がダメ、といってたりする。尚、僕は、1)合憲、2)より拡張的、柔軟であるべき、3)何とも言えない、4)馬鹿じゃないの、という意見だ。が、多くの反論は、なんだか全部ごちゃまぜにしており、論点を上げて論じるのではなく、戦争法案、徴兵制など、レッテル張りを繰り返し、メディアに向けての印象づくりに精を出しているのはひどいと思う。
維新案も、まず、より抑制的であるべき、という事自体一つの考えの提示だが、まず、出すのが遅いし、存立危機条項等、今でさえも相当抑制的な条項に対して、痛くもない腹をことさら大きく論じて、ちょっとした違いを出して、存在感を示し、結果混乱を助長しているだけなので、くだらないと思う。
メディアについては、総じてみると、内容を正確に伝えるよりは、今日は誰が反論しました、とか、レッテル張りを印象的に主張している人をクローズアップして出したり、賛成反対の結果の二元論を提示し、なぜ賛成か反対か、と解説していないことが多く、これもひどいと思う。メディアというのは要は視聴率や発行部数が勝負だから、彼らのメジャメントは、それが正しいか否か、でなく、如何に盛り上がったか、が重要なので自然そうなる。が、「総じて」と書いたのは、よく見ると、結構冷静な論評もまああるので、全部が全部、衆愚政治を推進している、という訳じゃないのもそれはそれでわかる。特に、個人的な偏見がないとは言えないだろうが、朝日・毎日・東京の各誌は、誰が何人反対している、とか、ともかく反対している、という事実を報じたり、具体的な論点をあげないで、戦争法案だからダメ、と主張したり、そうしたよく調べてなくて発言してる人の言葉を引用したり、としており、結構ひどいと思う。まず、法案の中身を正確に知りたい、という要求に対してこれら各誌はまず答えてくれない。それ以外にも、明らかに中身調べてないのに、発言してみたり、安倍政権に対する罵詈雑言とか、こんなの公共の場で発表しちゃっていいんですか、という言動まで結構普通に氾濫してて、これもちょっと異常事態だと思う。まともっぽい説明でも、中国の強大化、北朝鮮の脅威に対応して、とかあるけど、正直今回の安保法制のどこがそうなってるのかもよくわからない。中身を細かく解説する説明は、多分受けないから、それほど出さないのだろう。しかし、池上彰さんの成功は、ニュースをわかりやすく解説することがエンターテイメントになることを実証したことにあると思うが、同じ手法をもっとほかのメディアも挑戦してもよいと思う。(が、今回は、池上さんは、反対の様子、うーん、というところ。)
そして、これら、憲法学者、野党、メディア合わせた雰囲気だけみると、受動的な市民なら、「安倍政権は強権的」だから、(中身よく見てないけど)安保法制反対、内閣支持率低下、となるのだろう。
という訳で、学問的信念ではなく、学閥に囚われる憲法学者、議論を捻じ曲げ、存在の主張に汲々とする野党(これはまあ政争なので多少は許す)、論理よりも、雰囲気を盛り上げるだけのメディア、等今回の騒動全般に見てひどいと感じる。
最後に、大衆の過半数が反対する内容を進めることは民主主義に反するか、という点。僕は反しないと思う。これが間接民主主義だろう。本来の判断基準は如何に国益に資するかであり、大衆の支持は、その資本になり、また、結果の一つでもあろうが、目的ではなく、そうあるべきでもない。民主主義の最大の欠点は決まらない政治に陥ること、大衆の雰囲気に政治が流されることであり、だからこそ、あえて代議士制にしており、これは、古代の物理的制約、という以外に、判断する賢人を選んでその人に判断してもらった方がよい秩序が生まれる、という考えに基づいている。
また、客観的に、安保法制通すことは、自民党の利益にはならないだろう。アメリカに褒められるから利益だ、とかいうが、支持率は下がるのは明白だし、それで政権渡したら、アメリカに褒められても意味がない。大衆の支持を得て、議席を確保したい議員は、なぜ安倍首相に反旗を翻さないのか。野党と同様に、公認を外されない程度に、穏当な反対意見を述べて、正義の味方グループに入る方が彼らの生存にとってはプラスではないかと思う。安保法制というのは、武力行使を拡張する方向にあるのだから、内容いかんにかかわらず、こういう議論が大好きな朝日新聞など各方面から、攻撃を受け、内閣支持率も下がるに決まっており、明らかに彼には損であり、安倍首相もこれを見通せないほど間抜けではなかろう。が、にも関わらず、何故、それを実行したか、というのは、やはり、内閣総理大臣としての使命感や誇り、といったロマンがあったのではないかと思う。そしてそれには、当然、安保改定を強行した、岸信介首相の信念が勇気を与えているのだろうと思う。勇敢な姿勢だ。内閣支持率がまだ高く、行動の自由がある内にこれを実施したのも、適切なことだろう。また、世論調査に迎合しない、ということは、一流の民主主義の指導者に不可欠の要素だ。安倍首相は、決める政治、を行ったのだ。