英語の勉強をしていて、英語の問題集をやったりしているのだが、ときどきそんな問題集の文章の内容にも感銘を受けることがある。


1. 世界史への姿勢

世界史を大学で学ぶべきか、という問いについてのサンプル回答:

ぜひ学ぶべきだ。高校時代の世界史は、年号、人物、場所の暗記ばかりしているが、次元の重要性や意義について考えることはない。大学での世界史はいわば学習過程の第二パートで、これがあって初めて世界史を深く学ぶことができる。


全くその通りで、ちょっと前に外国(ここではアメリカ)について学んだ人の本を2冊読んだが(一つは、黒川清さん、もう一人は、佐々木紀彦さん)、両方同じことを言っているのが、アメリカ人の歴史に関する素養の深さで、アメリカ一級の戦略家というのは、古今東西の歴史を熟知していて、アメリカといえば歴史のない国だが、だからこそ、世界の歴史を学んで、それを比較検討し、教訓を引き出す、という発想をする。僕は、もともと歴者好きで、信長の野望から入り、三国志、そこからはいって中国史なども好きだったが、この時は、単に物語としての歴史に楽しさを見出していただけだった。(後は暗記が得意だったというのがある。)

そんな中で、歴史に対する考えを変えてくれた刺激は二つあり、一つ目は、浪人時代の予備校の講師の講義で、その人は最初に重要で世界史について10分で説明してくれ、特にその人自身歴史学の教授で、世界史論述の重要だったので、例えば、「鉄器の発明が中国古代史に与えた影響について」とか、まさに歴史の事件とその影響について説明するような内容で、この見方には特に刺激を受けた。特に、古代ローマの政治体制の変遷の説明では、武器が人の手に入るようになると、人は「権利」として、戦争への参加を要求し、戦争の勝利の結果、市民としての権利を要求するようになる、それにより政治体制が民主化する、ただ、一方、戦争ばかりしていると、みんな戦争で金を使い果たし、皆兵制がくずれ傭兵性になっていき、それが帝政につながる、などの説明は素晴らしく、歴史に対してこんな見方があるのか、と目が開かれる思いだった。(ところで、そういう意味で、世界史については、東大、京大の入学試験は、そういうことを問う、という意味で、質として別格に優れていると思う。)もうひとつの大きな刺激は、ヘンリーキッシンジャーの「外交」という本で、この本では、アメリカ屈指の外交の専門家としてのキッシンジャーが、30年戦争からウエストファリア条約、ウィーン体制から欧州統合、東西冷戦に至る歴史の変遷を概説しており、特に、科学技術や経済状況の変遷のような必然によって歴史が動いていく、という発想ではなく、歴史の当事者たちの行動、あるいは計算違いにより、歴史の事実がつくられる、という説明の仕方をしており、これにも非常に影響を受けた。

で、黒川さんと佐々木さんも同じような指摘をしていて、僕もつくづく思うのだが、日本の場合、このように歴史を人間の営みの事例集のようの捉え、それを比較検討して教訓を引き出す、という科学的発想が知的教養になっておらず、専門家、といわれる人たちの意見もいまいち歴史観に欠け、立体性がなく、歴史に言及するといっても、黒鉄ヒロシみたいな、歴史マニアのおやじみたいな話で終わっていたり、ローマの没落とアメリカの没落、とかいう全然見当違いな比較をしてみたりという程度で終わっている。結果、今現在の状況を無意識に過剰に強調し、見解に深みがなく、より悪いのは、だからすぐに現実を踏まえない底の浅い善悪論に堕してしまうこと。一方、例えば、FRB議長のバーナンキ、前議長のグリーンスパンも、世界恐慌を研究しており、前述のキッシンジャーも自分を歴史家と呼び、卒論は、カッスルリーとメッテルニヒをテーマにしており、重要なのは、そうした歴史を参考にして、現在政治経済の意思決定をしている、という点。だから、歴史というのは、戦争の歴史が一番派手だが、事例集として考えると、世界中の経済史、経済政策とその結果など、相当重要だと思う。例えば、今ユーロ共通債の是非を論じるにあたり、アメリカ建国後に連邦債を発行したアレクサンダー・ハミルトンの研究が盛んだという。その比較で、版籍奉還など論じても面白いと思うし、欧州の経済問題は、日本のバブルや世界恐慌と比較すると非常に面白いと思う。日本のバブル後の失われた20年と不良債権問題について、当時は、誰が悪い何が悪いと百家争鳴だったが(のわりに、それと世界恐慌を比較する、とか立体的な意見は少なかったが)、不良債権問題が解消した今となって、結局何が悪かったのか、と研究すれば、それはちょうど今の欧州の問題についての教訓を与えることとなり、すごく良いと思うのだが、欧州が大変で世界経済に悪影響を与え、日本は円高になるから、嬉しくない、という程度の話しか出てこない気がする。(あ、でも調べてみたら、まあ出てきたな。)


ついでだから個人的見解を書いておくと、バブル経済、というのは、ギャンブルをしていたら、突如大きな借金だけが残り、それを延々返さねばならない、そして、そういう状況で未来に対して悲観的になるほど、マクロでみるとますます状況が悪くなる、という話で、まず、総量規制でハードランディング、というのはちょっとまずかったのだろう、ということと、その後の景気刺激策が後手で小出しで、その結果、経済にとって大変重要な「期待」を下げ、傷口をますます深めた、ということがあり、こうなった後では、ゆっくり漢方薬を処方して行くしかないと思う。FDRも高橋是清も同様のことを行っているが、基本、財政支出をして需要を作り出す、というのが正しいやり方のように思い、これが期待を下げないうちにやる、というタイミングが決定的に重要になると思う。小泉さんが構造改革をしたから、というのは多分ちょっと違っていて、竹中さんが金融面で頑張ったのはあるが、小泉さんはタイミング的によかった、というのはあると思う。つまり、ばらまきがわるのではなく、バラマキをもっと早い段階で徹底して行わなかったことが失敗だったと思う。欧州は、この逆をやっているように思う。みていると、フーバーと同じようなことをやっている。僕はアンゲラ・メルケルとキャメロンは誤ったと思う。たぶん、オランドやデモをするスペインやギリシアの民衆の方が正しいと思う。が、時すでに遅く、欧州はもっと悪くなると思い、また今後失われた10年を経験すると思う。一方、アメリカの当時のブッシュ大統領とポールソンの対応、およびそれを基本引き継いだオバマ政権は正しい対応をしたと思う。つまり、対応で言うと、アメリカ>日本>欧州、だと思っている。


後は、そういう歴史に対する姿勢、ということの影響もあるんだろうが、はっきりいって、歴史に対する分析力は、西洋の方が上だと思う。古代ローマ史や近代史の本や勉強はすごく面白く、事例としての洞察にあふれているが、正直日本史や中国史について、そうした洞察を感じることははっきりいって少ない。日本の場合、島国で実質一国だけで1000年以上の歴史が続いている、という世界史上かなり珍しい国なので、例外的なのだが、西洋の歴史は、国境もよく変わるし、いくつもの国が競っているから、密集した地域内で、異なる社会実験が行われており、比較もすごく盛んで、このへんも違うと思う。(年来の疑問で、ヨーロッパ人で自国史と世界史、という概念があるのか、というのがあったが今調べると、そういうのはなく、ヨーロッパ史、しかないそうだ、たしかに、ヨーロッパを学ぶのなら、自国史で分割すること自体無理があるので次善そうなるのだろうと思う(ただ、アメリカ史や日本史、中国史をどう教えているのかは興味あるが。)


まあこの見解の是非はさておき、歴史を、クイズのためでなく、事例集として捉えることは、視野を広げ、洞察を深め、戦略眼を養うことにつながると思う。日本の場合、歴史は、クイズか物語で終わっており、これはすごいダメだと思う。



2.科学に対するアプローチ

エジソンは、ラボを作り、そこに若者たちを集め、発明だけに集中させ、そこでの目的は、小さな発明は、10日に一度、大きな発明は、六か月に一度を目的とし、これはほぼ達成された。エジソンは、白熱電球や蓄音機など発明したが、彼が発明した最大のものは、問題解決に向けた体系的なアプローチにあり、まず問題をあらゆる面から徹底して調べる他、その発明自体に関係する問題の解決に取り組んだことで、発電機、ヒューズ、電線管も発明し、電灯を単に新奇な発明でなく、実用的なものにした。


技術者として、こういう発想については、刺激を受けることがある。まず、僕の立場だと、外資の会社の日本の出店の立場というのもあるのだろうが、本社から言われた「先進的」といわれる価値をさもすごいことのように大げさにしゃべったり、利益率とか管理とかリスク回避とかやたらこだわるが、どのような価値を生み出すか、という価値を論じたり、その為には、何よりアイデアが重要だと思うが、自分の頭を使ってアイデアを生み出す、ということが求められない。これを自覚している分にはまだいいのだが、特に自分が頭がいい、と思い込んでいると、そういう問題意識を持たないで、本社、あるいは、パートナーさんなら、我が社の新しいソリューションをしゃべることが知性の証拠みたいに思い込んでいる、ということがほんとに多くて結構うんざりしている。実際技術を触っている人1人に対して、それをしゃべる人が10人いる、という感じで、YUIの歌にあるように、

発明家は偉い人だと 教えられた

力する モノを生み出
でもそれに群がってゆく人たちこ
かしこくて 長生きだ

というのは、ほんとにそうだと思う。まあ、社会とはそういうものだというのあり、「群がる人」を全否定するつもりもないんだが、自分の頭を使ってアイデアを編み出す、というのは軽視されており、それもどうかと思う。そういう意味で、「発明ばかりに集中させ」、しかも、10日に一度小さい発明を、六か月に一度大きな発明、という、わかりやすい数値目標を立てて、とりあえず数を出す、という発想はすごく大切だと思う。こういうのは、トヨタの改善の発想と同じだ。

もうひとつ素晴らしいのは、部分でなく、価値で考え、価値を実現するための総体を考え、そこで、必要なものを考える、という部品思考ではなく、価値志向、ということ。これはスティーブ・ジョブスと同じ発想だ。IBMも昔そうだったとのこと。技術者をやっててつくづく思うのが、技術者というのは部分に対する知識に誇りを持っていることが多く、価値や、相対、については考える目をそもそもつむっていることが多く、その意味で、エジソンの発想は非常に素晴らしいと思う。

科学のダイナミズム、というのは、あるゴールを目指すにあたり、アプローチが自由なことであり、固定観念にとらわれず如何に多彩な発想方法でゴールに迫れるか、ということにあり、ある分野に対する知識量というのが勝負というわけでは結構ない。だから、大発見を行う場合、その対象以上にアプローチ方法というのを研究するというのはすごく効果的だと思う。もし高度なアプローチ方法が発見されれば、それを適用して大発明をいくつも行うことは可能だと思う。そういう意味では、エジソンの発明品以上に発想法が素晴らしい、という見解は非常に良いと思う。

こういう全体最適の発想法や、科学がダイナミズムには触れるもの、という発想はあまり日本では聞かない気がする。


3.幸福とは

アリストテレスは、幸福とは、それ自体が目的のものと、それ自体は手段であるものをはっきり区別する必要があり、例えば、エクササイズは、それ自体やることがが幸福というより、それにより健康になることが目的であるといえ、私(話している教授)一方楽器を弾く、ということはそれ自体が楽しみである、といえる。また、幸福について、自ら手に入れられるものと、人に依存するものがあり、本当に重要なのは前者といえる。例えば、名声は、本質その評価は他人に依存するものであるので、それ自体は幸福、といえんだろう。


これ自体、流して聞くと、昔の哲学者がそう言いました、という程度だが、特に、ヨーロッパ人と比較してよく思うのだが、日本人の場合、この辺、自分の幸福とはなにか、という定義が明確でない、という感じをよく受ける。例えば、子供の頃は、いい大学に出ることが目標とされ、会社に入ったら、出世して、金をもらう、ということがよい、というメジャメントになる。が、これは、高校時代に強く思ったのが、当時、受験勉強より、僕の場合は、そこで、文化祭をつくって、自分の高校生活を充実させ、母校に尽くす、ということの方が、自分の人生充実のためによほど重要だ、という感じがあり、まあ、それなりにやりきった。この判断には自分なりには誇りを持っていて、若い時にそういう経験があると、その時得た確信、というのが、結構その後にも影響してくる。そんなこともあって、実際、大学に行ったり、いい会社にはいること、金をもらうこと、出世すること、など、それ自体手段であり、それ以上でも以下でもない、ということは僕個人ははっきりしている。

手段を無視して、貧乏でみじめな生活を送るとしたら、それもそれでいやなので、手段なんて無視しろ、というのも一方違うと思う。金がないと自己満足もないので、その時の自分の快楽ないしはやりたいことに身を任せるというのも長期的にみて不幸になることがあり、友達の中にも悪いけどそういう人もそれなりにいて、そういうのも、自分の人生しっかり考えてないな、という意味で、ちょっと違うな、という感じは学生時代とかは、あまり口には出さないが、内心結構思っていた。実際、ちょっといい会社に所属していた方が、そうじゃない会社にいたときに比べて、やっぱりなんか満足感があるのは正直なところ。


が、本質手段であるものを目的と捉えるのもちょっと勘違いだと思う。結局人生自己満足だしそうあるべきだと思う。ただ、その自己満足を最大化するために、今の瞬間を今今を生きるだけでなく将来の準備に使う、という単に計算の上手下手の話だと思う。具体的には、高校時代に受験勉強する、とかは、別に、えらいんじゃなくて、結局その人自身の人生の自己満足の総量を最大化するためにやっているのだから、単に賢いか馬鹿か、という話だけだと思う。つまり、受験勉強をやってたり、資格の勉強する、とかは別に偉いわけでなく、一つの身勝手の形態だと思う。(僕自身高校時代、自分は部活や文化祭に捧げていたが、一方、3年でそうしたものをやめて受験勉強をする友人を見て、極端な見方だが、身勝手な奴だと思っていたし、浪人時代は、四六時中自分の身勝手に集中できるので、ある意味楽だし、それはそれで浪人時代は充実していたと僕はいえる。)結果本人がそれに納得していたり、自分なりに自分の幸福の定義を明白に持っているのならいいのだが、それなしに、そうした本質手段のものばかりに人生の時間を使い何のために大学に行って、何のために働き、何のために結婚して家族を作ったか、ということに、はっきりした意味を見いだせない、としたら、そしたら何のために生きているんだ、という話になり、それもそれで違うと思う。


こういう自己満足を自覚をもっている、というのはとても良いことだと思い、その方が、社会は多様性に富んで、風通しがよくなり、楽しいと思う。英語の勉強をしていると、アリストテレスは結構出てくるんだが、ヨーロッパ人、というのは、多分学校の勉強でアリストテレスを勉強していて、自分の自己満足は何か、をはっきりさせて生きていきましょう、という姿勢が徹底している社会なんだと思う。これはすごくいいことだと思う。


僕は、現在および未来の自己満足とは何か、ということは結構はっきり意識しているつもりだが、それでは今の人生満足か、このまま終わって満足か、というと実はそうでなく、このまま惰性でやっていくのも違うな、という感じもあったりするので、うーん、と考えるところ。


そういう意味で、英語の勉強をしていて、突然そこにある文章でこんなことを考えたりする。アメリカ人はこういう発想をしたり、こういうことを習ってるのか、ということを学ぶという意味でも面白い。