週末に、ふと、『神様、もう少しだけ』を見た。

 

前に見たのは10年ちょっと前で、その時は、社会人デビューした年だったと思う。その時もそうだったが、引き込まれて一気に全部観てしまった。

 

 

久々に見たときの感想が、10年前の印象と違っているというのが興味深い。10年前は、深田恭子かわいいな、という印象に尽きたが、今回もまあ、改めてそう思い、いい演技すると思ったが、それだけじゃなくて、ちょっと考えるところがあった。

 

 

物語は、HIV感染をテーマにしていると言われるが、多分、作家の意図は違う気がする。HIVだとか、恋愛とかは、単なる要素の一つであって、多分テーマは「生きる」ということ、もっと言うと、生きる、というのは、時間の長さじゃなくて、時間の長い短いにかかわらず、どれだけその時間を意義あると感じる時間とするか、情熱を燃やせなければ動物的に生きているといっても生きているとはいえないのではないか、ということ、それでは、意義ある、とは何か、人に迷惑を掛けても自分の思い通りに生きるべきか、逆説的だが、人の為に生きることに意義を感じることができれば、いわゆる、生き甲斐、を見つけることができれば、それはその人にとって本当に意義ある人生といえるのではないか、こういうことをテーマにしているように思う。ただ、芸術作品なので、それをそのままメッセージにしても単なる説教になってしまうので、HIV感染という特に当時強めの題材を用いるほか、恋愛、家族、いじめ、など複数のテイストを織り交ぜて話を構成するあたりはオシャレだと思う。HIVというのも、どちらかというと、そういう伏線のほか、生きる、ということを強調するための題材として使われているにすぎず、恋愛、ということについても、生きる、ということの題材として使っているにすぎないように思える。

 

 

ちょっと思い出したのが、King牧師の「I've been on the mountain top」という演説。この演説のすぐ後に暗殺されるが、これを知っていたかのような不思議な内容の演説。「もし自分が生まれ変わるにしても、自分は、この時代のこの場所にいることが幸せと思うだろう...神は私が山に上るのを許され、私は、そこに約束の地を見た、私はそこに行けないかもしれない、しかし幸福だ」というようなことを演説する。この演説は、そのロマンと切なさも含めて、すごく好きな演説。こういうのと、テレビドラマを比較するのもどうかという気もするが、結局テーマとしていることは一緒だと思う。

 

 

http://www.americanrhetoric.com/speeches/mlkivebeentothemountaintop.htm

 

 

 

物語も、それぞれの登場人物が、生きる、ということに対して自分なりの課題を持っていて、それぞれがそれぞれの回答を出していく。

 

 

 

(すみません、ネタばれを含みます)

 

 

叶野真生:

 

HIV感染により、自分の命が長くないことに絶望し、それだけじゃなく、周りからも差別に遭い、表面的に味方だと思っている人も、それぞれ心が別のところにあり、誰も自分を見てくれないことに絶望するが、啓吾の音楽による応援で勇気を取り戻し、短い命を自覚するからこそ、自分に正直に生きることを決意する。売春を告白するシーン(とその後で、それで迷惑を被る周り)は、周りを巻き込み、傷つけることになっても、自分に正直に生きるべきか、ということについて、逆に、人に迷惑をかけないことを優先したら、自分の存在の意味はないだろう、という作者としての強いメッセージだと思う。自立した人間でありたい、という人としての誇りを持つこと、人を好きになること、自分の思いに正直に生きること、こうした、「生きる」とは何か、ということについての物語の答えを、体現して行くことになる。子供を産む、という気持ちも、人を好きになったことの証を立てたい、という当然の感情から起きたもので、それを、恋人に理解されたというのは大きな喜びだろうと思う。最後の、自分の子供へのビデオレターでは、ちょっとストレートすぎる気もしないではないが、生きる、ということについての考えを、作品のテーマをそのまま語らせたこれもまた名シーン。

最後に死ぬのは、これも作者のメッセージで、時間の長い短いにかかわらず、意義ある人生を、というのが作品のメッセージなのだから、力いっぱい意義ある人生を生きた主人公はやりたいこと、なすべきことを行った後に、死ぬ、そして、死んだ後も、彼女が生きてきた証が人を幸せにしている、というメッセージとなる。

真生、という名前が、その役割そのまんま。

 

石川啓吾:

 

音楽的な成功を収めるが、以前の恋人と死別し、絶望していたが、それをごまかし、何とかやってきたが、限界に達し、もう自分から音楽が出てこなくなり、自分の内面も分からず、熱狂や安っぽう感動に浸っているファンを見下し、すべてが虚無的で、生きているのに死んでいるようだった状態。そこで、真生と出会い、一夜を共にしたことから、エイズ感染と死の可能性を除き、逆に、生きている、ということを思い出す。さらに、HIVに感染していて辛い中にある真生を支えることに、自分の存在場所を見出し、さらに、彼女が、自分の音楽に励まされたことに気づき、自分の音楽に彼女を励ます力があることを見出し、音楽を生む力が急によみがえってくる。最後には、彼女を支えることが自分が「生きている」証であることを自覚する。これも、作者の生きる意義に対する一つの答えで、誰かを支えることは、その人のためなのではなく、自分の生き甲斐のためであることだ、というメッセージだろう。彼女が子供を産みたい、といった時、賛成に変わったのは、自分自身が、生き甲斐のない状態で動物として息をしているよりも、生きる意味を見出したからこそ初めて生きていることを実感したのと同様、彼女にとって、子供を産む、という目的がなければ、動物としては生きても、人としては、精神は死んでしまうことが分かったからで、実際かなりはっきりそういうセリフを言っている。単にロマンスではなくて、このセリフは、そういう人が人を尊重することが込められて、作品テーマに通じる、名シーンだと思う。

 

母親:

 

家庭を顧みない夫から心が離れ、別の男と恋仲になるが、娘の病気のことから、娘の為に生きようとする。ここでは、生き甲斐の答えを、自分自身の感情に正直に、ではなく、人のために生きる、という結論を出している。が、これに後悔があるか、というと、場合によっては、人のために生きる、というのは人のため、というより、より自分の存在意義を見いだせる、ということもあり、ここでは、多分そういう結論を出した、ということなんだろうと思う。最後の結婚式前の娘と語るシーンで、自分の役割を全うした、というさびしさと満足感が表現され、それに対して、娘がありがとうを言うシーンがあり、彼女の選択がよい選択だった、ということを表現したいいシーン。

 

父親:

 

家庭を顧みず、世間の目だけを気にしていて、結局、この人の生きている目的は何だろう、という疑問を起こさせるためにいる人。ただ、いろいろあった後、家族の幸せを改めて考え直し、娘と妻の幸せを優先し、離婚という自己犠牲を選択する。(ただ、このシーンは、幸せを望まれている対象の家族にとっても、後味悪いだろう、という感じで、犠牲は払っているが、幸福を生むわけではなく、あまりいい感じはしなかった)。最後のシーンで、生きる中で何を大切にすべきなのか、ということについて、娘に教えられた、と告白し、これも、多分、作品テーマについての作者の見解を示した大事なシーン。

 

野口さん:

 

主人公にHIVを移した人。自分が何のために生きているか分からず、HIVになって、会社もやめて、改めて、自分が孤独で無意味な存在であることを自覚する。が、最後は、ガソリンスタンドで働き、「人の役に立っているのが楽しい」というセリフを言わせる。これも、生き甲斐とは、ということについての、作者の考えを示す、多分結構重要なシーン。

 

作品としては、恋愛の話で突っ込みを入れてはいけないのだろうが、ちょっと冷静さに欠け、こういう恋に酔っている、というのが愛なのか、相手を思って冷静になる方が愛というんじゃないのか、という感覚が個人的にはあり、そういうシーンには、感情移入できなかった。後は、作りたいシーンを作るための伏線か、あるいは、物語に起伏を持たせるため、というのも時々あるだろうが、流れとして自然じゃなく、ふつうそういう流れにいかんだろ、とか、さっき会った時の感情はどこいっちゃったの、というシーンが結構あり、強引さを感じてしまう。妊娠の経緯などこの典型。また、中盤以降、ネタが苦しくなってきた感じがあり、アメリカに行く、とかあまりテーマに関係ない気がする。

 

 

後は、主人公は、魅力的に描かれ、この話の深田恭子の演技もかなり好きだが、男の方は、僕は金城武はかっこいいと思うんだが、この話では、キャラクターとして、あまり魅力的に描かれていないし、共感もできない。もうちょっと自分なりの哲学をバシッと持っていて、通すところは通すが周りも配慮して、こちらも別の意味で、まっすぐで、主人公とぶつかりあった方がよいという感じがする。物語を見ていると、ちょっとダメ男過ぎな気がする。むしろ、いつも優しく、明るく振る舞い、HIVに感染した主人公を気遣う、イサムという主人公の友達や、しょうもない移り気な啓吾をなんだかんだ支える社長や付き人、プロフェッショナルな立場で、いつも現実と向き合いながらも常にベストを尽くす医者の人などの方が、僕としては共感できた。

 

 

何で、こんなにいろいろ思ったか、というとこだが、この主題、というのが、結構考えることで、昔から、偏差値、という尺度が至高、とすると、社会に入って会社で出世して、高い金をもらうのが至高、ただ、金とか地位って結局手段にすぎず、それ以上でも以下でもない、じゃ、結局、いつも手段の為に生きているのなら、結局目的ってなんだろう、ということになる。一方、金がもらえて休みが多いのがいい、とみんな言うが、それなら、何もしなくて金がもらえる、という生活が本当に幸福と言えるのか、というとそうでもない、と思う。で、今まで生きていることを実感できた時、っていつなのか、というと、僕の場合や、やっぱり何かに尽くしていた時だった、と感じ、一方で、最近の自分は、どうなのだろう、とふと考えたりする。

 

 

 

個人的には、一番印象深かったシーンは、主人公が、前項の前で売春とHIVを告白するところ。

https://www.youtube.com/watch?v=ADGzF078gBU

周りを傷つけることがあっても、自分に正直でなければならない時がある、というメッセージには、ちょっと昔の事を思い出しながら、考えるものがあった。