ちょっと前に、「日本人として読んでおきたい保守の名著」という本を読んだ。各国の保守思想家とその著作を紹介する本で、難しくて途中で飽きるかな、と思って読んだが、意外に面白く、すぐに読んでしまった。
これに影響されて、「ザ・フェデラリスト」と、学生の時に読もうと思ったが訳があまりにひどくてあきらめた「アメリカのデモクラシー」を、今度は岩波文庫で買ってしまったぐらいだ。
すぐに読めた理由として、自分自身、いわゆる保守主義的考えをもっていた、というのがあり、考え自体かなり近く、しかも、いわゆる表面的な意味で近いのではなく、もっと思想体系としてのかなり近い考えだったから読めたのだろう。
保守、リベラル、自由主義とかいう言葉は、結構定義が分かりにくい。リベラルというと、語源から考えると自由だが、どっちかというと社会自由主義、進歩主義、みたいな響きがある。保守、についても、単に、
外国人参政権に反対
移民に反対
夫婦別姓に反対
死刑制度に賛成
核武装に賛成
小さな政府に賛成
TPPに反対
というのが保守といわれるが、それが保守とも限らない。実際、僕も
外国人参政権→反対
移民→ある程度賛成、内容による
夫婦別姓→ちょっと考える
死刑制度→賛成
核武装→論議するのはよいこと。
小さな政府→必ずしも賛成しない
TPP→賛成
など、日本で定義される保守、という立場とは同じでない。
ただ、僕も、
看護婦を看護士と呼ぶ、
小学校の学芸会でみんなが主役になる
ともかく原発停止
ゲイの人権
とか違和感ある。
また、保守主義、というのは、響きが悪く、過去をひたすら守るだけで進歩を拒否する、というようにも響くが、そんな立場でもなく、むしろ進歩を信じている。
保守主義、というのは、僕の解釈で言うと、
経験主義、もっと言うと歴史主義(⇔理性主義)
現実主義(⇔理想主義)
といえる、例えば、憲法で、「人はみな平等で人権がある」と宣言されたからってそれを宣言すれば、世の中ほんとにそうなるはずもなく、民主主義がすばらしいのなら、何故、歴史上すべての地域、すべての国家が民主政とならなかったのか、アテネの民主制は何故崩壊し、ローマも共和政からなぜ帝政になり独裁制になったのか、など説明つかない。
例えば「人はみな自由である」ということを究極に解釈すれば、結婚などという制度は自由を制限する制度になる。が、なぜ結婚などという制度が、洋の東西を問わずあるかといえば、社会にとってそういう制度があった方がうまくいくものである、という経験則が、どの人間社会にもあったのだろうと思う。こういう、理詰めで考えると、究極的に結論がでない、あるいは、否定的な内容であったとしても、歴史的、経験的に残っているものには、それぞれ何らかの意味があり、それが長い期間にわたって受け継がれてきたのだから、それなりに意味・効用があるのだろうから、理屈だけでそれらを否定してはいけない、という方がむしろ科学的姿勢だと思う。
あと、そうであるからこそ、保守主義は、現実主義と相性がよい。歴史というのは結果であり、事実であるから、まず、それをファクトとして受け入れ、そこからどうした法や洞察が導かれるか、それを当てはめると現状をどう理解し、どう対応することが合理的なのか、という発想となる。そこに、あるべきだ、という価値観は入れないことが重要だ。例えば、豊臣秀吉がキリシタンを弾圧したが、これが善か悪か、とか考えるのではなく、何故為政者がそれを必要と考えたのか、それが、統治にとって有益だったのか、例えばこれを、アメリカ大陸で入植してきた人を助けたインディアンや、ヨーロッパの30年戦争と対比して考えるというのが、僕の現実主義に対する理解だ。現実主義者、リアリスト、について、理想主義との対比で、ニヒニズムととらえたり、理想のない打算的な態度、という解釈にも大きく違和感があり、言わせてもらえば、単に善悪の価値観なしに、科学的事実に基づいて考えているか否かだけの話で、いわゆる理想主義、というのは、強く言ってしまうと空想主義、主観的、自己満足にすぎないとさえ言いたい。そういう意味で、現実主義というのが、理想主義と対義語で、現実主義者は理想を持たない、というもの全然誤りで、例えばリアリストでよく出てくるマキャベリは、たとえ自分の評判を傷つけてでも、国家の存続に強い情熱を持ち、その最善策を説いた大変な理想家だ。いわゆる「現実主義者」は、そんな馬鹿はせずに、それぞれの世の中で自分だけがうまくやっていくことを考える。マキャベリのような人種は、いわば理想主義的現実主義者、と言うようなタイプで、個人的にもこうありたいと思っている。
そういう観点からすると、「理想主義」、「リベラル」というのは、単に科学的な立場からしても全く受け入れられない。具体的に言うと、鳩山、とかはまさにこうしたタイプに見える。まあ、それを主張している人たちが「理想」を求める、という善なる動機がらそう言っている点は疑わない。ただ、どちらがよいか、という論争という問題ではなく、単に、科学的か、という判断なだけであり、歴史で証明された現実を無視する、ということ自体が非科学的であり、「現実的」でない、というだけだと思う。ので、「理想主義」とか全然わからない。
典型的なのは、外国人参政権、の問題であり、フランスやオランダ、あるいは、東南アジアの華僑の経済支配、などおこっている歴史的ファクトをそのまま直視すれば、外国人に参政権を与えた方がフェアだ、人はみな平等だ、とかいってはいられないことは明白で、賛成の人、というのは、歴史的素養がないだけだと思う。核武装についても同じで、核を持つのと持たないのとでどちらが国益にかなうか、慎重に論議する、というなら良いと思うが、理想主義の観点から武器を捨てましょう、と言うのは、武力のない国家がどのようになったか知らない、という単に自己満足の理想に酔っているだけの空想にすぎない、といえる。
保守主義が進歩を否定している、というのは違っていて、というか、とりあえず僕のスタンスではなく、もちろん社会は進歩していくものだし、すべきだと思うが、ただ、そうした進歩というのは、歴史で証明されてきたファクトを前提とすべきであり、ある内容を変える、といった場合、それが何故歴史的に証明されてきたか、その証明が現在通用しなくなった客観的背景は何か、それを背景にどう変えるべきか考える、というのがいわゆる保守の姿勢で、これこそ科学的な態度であると思う。そういうの無視して、今の状況の一部だけ見て、変えましょう、変えたらよくなる、というのはあまり科学的でないと思う。例えば、夫婦別姓という時、夫婦同姓というのは、おそらく家族や一族の一体性こそ社会の基盤であり、それを守るための象徴で、それが必要なことは歴史が証明してきたのであろうと思う。ただ、今の時代は、技術の進歩もあり、男と女の役割分担がそれほど明確でなくなり、それぞれ共働きが普通になり、一方、離婚も事実としてかなり増えてきている現状を考えると、同じ原則がすでに実態に合っていない、ということもあるかもしれない。そこで、いや、家族は重要なため、その分離を促すような変更をすべきでない、離婚をさせないように仕向ける社会の方が望ましい、というのはそうかもしれないが、その道徳律で人を縛ろうとするのは、現状を考えると無理があり、別姓の方が実態に即していると言わざるを得ない、というのがあると思う。こちらの方が現実的であり科学的だろう。一方、単に別姓の方が個人の自由が尊重される、といった程度の問題ではない。
故に、保守的変革者、という種類の人間もおり、例えば、歴史上では、ハミルトンやビスマルク、あるいはリー・クワン・ユーというのは、保守主義(=歴史主義、現実主義)だが、変革者であると思う。というか、歴史的に優秀な政治家、というのは、皆、保守的変革者だと思う。
保守主義、というのは、革命を嫌う。革命、というのは、歴史で証明されたファクトを無視して、自分たちで夢想した理論を盲信する。しかし、実証を経ていない純粋理論であるため、それでうまくいくことはほとんどなく、一方、それを絶対善、絶対真理と信じている為、うまくいかなくなったときにその経験に基づいて反省し、考察するのではなく、無理や理論通り動かすような偽装に動いたり、その絶対真理に反対する人間への呵責ない弾圧につながる。かくして、理想から出発しても、無能ゆえにそれが圧政に変わる。フランス革命、ロシア革命、中国共産党の支配、ポルポトに支配、など、すべてそうだと言える。アメリカ革命については、例外だが、これは、建国の父達、特にその中心にいたハミルトンが保守主義、つまり、歴史主義者、現実主義者だった為であり、また、ひっくり返すべき元の体制もなかった。そうすると、アメリカ革命、という「革命」という語は、適切でないかもしれない。
ちなみに、日本で法律を学んでいると、歴史の香り、というのが非常に少ないが、おそらく憲法なり法律、というのは本来そういうもんじゃなく、それぞれの条文に哲学や物語があるものなのだろうと思い、ここがやっぱり、ニューディーラーという「理想主義者」につくられた日本国憲法のゆえんなのだろうと思う。だから、日弁連みたいな連中は、「人権がすべて」、「看護婦は看護士にすべし」みたいな、歴史観のないことを真顔で主張する。看護婦、の名称については、まあ理論的には、士の方がいいんだろうが、こういう仕事は女性の方が一般に妥当なんだろう、という感覚や、そもそも、看護婦の方が響きがしっくりくる、という直感的なバランス感覚から考え、ちょっと違うと思う。さておき、言いたいのが、本来、憲法とか法律とかというのは、そういうもんじゃなくて、少なくとも憲法は、歴史的な価値観の体現、というのがあるべきことで、「憲法」を持っているからって、別に、それが全部天賦人権説や三権分立という一つの考え方に従っている必要などまるでなく、たとえばマレーシア憲法では、国教はイスラム教、と明言しているらしく、それで良いと思う。それに、率直に言ってそもそも憲法なんていらず、社会の価値観なんか明文化しない方が自然だと思い、無理やり明文化すること自体が歴史主義、保守主義を否定している気もしないでもない。実際イギリスには憲法はないが、それが普通だと思う。アメリカは、建国の事情からして明文化する必要があり、これがアメリカの発祥であり歴史なのだから、他の国の「憲法」とは位置づけが異なると思う。日本では、戦後、この日本国憲法、というのが言葉で宣言されてしまって、象徴天皇制、武力の放棄、個人の尊厳の過剰重視、など、歴史的文脈と異なることが宣言されてしまい、結構これが社会の隅々まで悪い影響を及ぼしているというのを感じる。ともかく、日本の法律家が、理論的すぎ、歴史観に欠ける点はいい傾向でないと思う。
保守とは、
理論でなく経験
理想でなく現実
個人だけでなく共同体
自由とともに義務
理屈より直感とバランス感覚
善より覚悟
というのが、僕の解釈です。