どういうわけだか、最近BOØWYにハマっている。理由はわからない。


昔ハマっていたのは、中学校の頃で、もう相当昔になる。まず、それから僕は中学、高校をでて、大学を卒業し働きだし、すでに何年もたっているが、そんな自分が子供から大人になっている間、未だ、氷室も布袋も一線のミュージシャンとして、昔同様に、変わらずずっと輝き続けてきた、というのを思うと、なんだかそこだけ時が止まっているように思え、不思議な感じになる。


当時は単に、かっこいい、となんとなく思っていが、今ライブの動画とか見ても、古さを感じさせない。全然かっこいいと感じる。また、今見返してみると、当時感じなかったことを感じたり、今の時代インターネットでなんでも調べられるので、当時知らず、最近初めて知ることがあり、余計に感じるところがある。


氷室と布袋の過去

RCのライブを見て一念発起した氷室

Cloudy Heartのいきさつ

解散

布袋の離婚と再婚

氷室のロス移動

最近の復興ライブ


BOØWYというバンドはそれ自体、上京して世の中に振り回され、私生活でもどん底だった氷室が最後に賭けた信念であり、挑戦であり、夢であって、最終的にそれがサクセスストーリーとなる。BOØWYØは、何処にも属していない、という意味だそうだが、事務所に言われるがまま自分の心の声に合わないことをやるのに嫌気がさした氷室が、開き直って、どうせやるのなら、成功しないにしろ、自分のやりたいこと、納得できること、今まで世の中になかったことをとことん追究しよう、という気持ちを表していたのではないかと思う。

そして、その氷室がパートナーに選んだのが布袋だ。氷室と布袋というのは、人間のタイプが異なる。氷室は元暴走族らしく、肉体派で硬派、一方、布袋は、音楽オタク。ただ、多分いろいろ見ていると、布袋の方は、多分最初は、遠くから見る氷室のナイフのような鋭さに強力な磁力を感じ、たぶん、自分にないものをもつ、この人とやってみたら面白い実験だ、という直感はあったのではないかと思うし、最初会った時にそう感じたかはさておき、今まで世の中になかったことをやって、世の中を「イワして」やろう、という目的意識は、完全に一致していたんじゃないかと思う。


異なる個性と共通の目的。

かくして、伝説のバンドBOØWYが誕生することになる。


BOØWYというのは、他のメンバには悪いのだろうが、やはり、氷室と布袋のバンド、というように、どうしても見えてしまう。そして、昔はそうとも思わなかったが、今見てみると、当然だが、4人がそろって初めてBOØWYであり、今改めて見ると、氷室の硬派で、鋭くセクシーなボーカルとともに、布袋のラフでファンキーに刻むギターが欠かせない。この2つの個性がステージ上で激しくぶつかり合って、初めてBOØWYになる。やはり、正直、氷室のボーカルのない布袋のステージは、主役不在の舞台だし、一方、ソロの氷室も、何故かどこか気の抜けた感じ、共に、BOØWYを知っている分、それが一ピースでしかない、と正直なところ感じてしまうし、両人共に、本心どこか、そう認めているところがあるのではないか、と思える。


解散については、いろいろ言われる。見る限り、確かに円満、という感じではなく、後からみればどうでもいいことなのかもしれないが、当時のメンバからみれば、何かぎくしゃくしたものがあったのは、確かなのだろう。BOØWYというバンドの定義自体、多分、自分達の実験で、世間をイワすことにあったとすると、自分たち自身が世間に認められ、メジャーな存在になってしまうと、その目的が満たされてしまい、存在意義を実感できなくなってしまったんだろうと思う。自分たちの力で、世間を認めさせる「挑戦」としての存在でなく、逆に、その世間に認められたブランドによりかかってしまう、ということ意識が堕してしまうことに対しての怖さ、あるいは、周囲に言われることに従うことを否定し、自分の魂の求めの忠実な発露だった存在が、有名になったことで逆に、それを守ることを目的として、義務を強要する存在になってきたことへの違和感、というものが逆に芽生えてきてしまったんだろうと予想する。常に、挑戦していなければならない、常に魂に忠実でなければならない、という強迫観念。大人の目から見ると、どこか生真面目すぎ、純粋過ぎるようにも思える。しかし、これこそロックンローラーということかもしれない。

特に、布袋については、本質的には、常に氷室を認め、尊敬していたことは終始変わらなかったのではないか、と個人的には思う。ただ、人間の気持など意外に自分自身さえもいつもよくわかっているとは限らず、冷静に振り返ってみると、当時自分で思いつめていたことが、後から考えると、実は、本質的な事ではなかった、と思うこともそれなりにあるのではないかと思う。氷室といる限り、いくら自分がBOØWYより意味のある役割を果たしたとしても、氷室あっての布袋、どこか圧倒的存在の氷室に頼ることになってしまうところがあり、自分個人の力を、BOØWY以外の場所で証明しなければならない、という感覚が、そのときあったのではないかと思う。氷室自体はどう思ったのかはわからない。ただ、一緒に底辺からサクセスストーリーを作り上げたパートナーが、夢が現実になった今、自分の道を歩きたい、といった時に、少しさびしく思ったのが、自分のエゴで、それを止めるようなことはできない、布袋あってはじめてBOØWYだから、解散しかない、と考えたのではないかと予想する。


Cloudy Heart』は、氷室が昔の恋人との関係を歌ったものだということを最近始めて知った。しかし、それだけではなく、BOØWYのメンバーの別れの気持ちも、込められるようになっていると思う。


多分、氷室京介という人は、暴走族をやっていたこともあろうが、たとえ辛くても、自分の美学に忠実で、人間関係も筋を通すような人で、ある意味頑固な人なのではないかと思う。一方、布袋は、それほど原理主義的な人ではなく、気持ちが時期により変わり、感情に基づいて行動し、それほど原則にはこだわらないタイプなのだろうと思う。解散後、氷室は、孤高のボーカリストであり続け、他の人と別のバンドを組むことはない。私生活でも結婚後はスキャンダルもなく、愛妻家とのこと。それに対して、布袋は、吉川とCOMPLEXを組んでは別れ、私生活でも離婚経験がある。COMPLEXについては、氷室とは別のメンバと組んでやることには、それほど抵抗はなかったが、いざやってみると、やっぱり氷室と違う、氷室でなければダメなんだ、ということに気付いたのではないかと思う。実際COMPLEXのライブの映像を見ていて自分もそう感じる。COMPLEXの最後のライブでの布袋の表情と、LAST GIGSで完全燃焼している布袋の表情は全然違っている。COMPLEXに対して、氷室が、こんなことをするためにBOØWYをやめたのか、というようなことを言った、というようなことがどこか書いてあったが、COMPLEXをやる布袋に対して失望した、というのはそうなのだろうな、と思う。


こういう、共通の夢を実現した同士、かけがえのない人間関係が築かれ、これが壊れる、しかも、つまらないいがみ合いからではなく、純粋な思い・信念からそうならざるをえなくなる、ということの衝撃は、内面的には、数年程度で収まるものでもないのかもしれない。BOØWYの解散から、今はもう、20年を超えた年月が経つが、それぐらいの時を経てやっと、当時の状況を少し冷静に振り返えられるようになるのではないかと思う。今になって、布袋は、やっと当時を冷静に振り返ることができるようになり、「永遠の恋人」、「魂を分け合った同士」と布袋らしく感情に忠実に素直に自分にとってのかけがえのない氷室の存在を表現し、素直に未練を表現する。BOØWYの再結成を熱望する。一方、氷室はと言うと、そうした感情は見せずに、布袋の表現に対して、表面上頑なに拒否する。しかし、氷室が、過去のわだかまりを今だに持っていたり、あるいは、過去の記憶などすっかり忘れてしまったのかというと、実はそんなことはないのではないかと思う。それなのに何故氷室は頑なに拒否するか、といえば、それは、氷室独特の美学ないしは義務感、「挑戦」の象徴だったBOØWYを、自分たちの過去を振り返るノスタルジーにしてはならない、ということがあるのだろうと思う。今、自分についてきてくれているメンバに対する義理、ということもあるのかもしれない。

しかし、BOØWYの思い出は、氷室にとって、多分、布袋以上に強い思い出として持っているし、氷室は、そういうことは、メディアには口にしないのだろうが、氷室にとっての布袋も、「永遠の恋人」で、素直な気持ちとしては、また布袋とやりたい、というところも、内心どこかあるのだろうと思う。解散の件も実は内心、氷室の方がより傷ついていたのではないかとさえ思う。しかし、内心の強い思いだからこそ、なぜか、そこにいってはいけないという不思議な強迫観念があるのではないだろうか。氷室が、いまだにBOØWYの歌を歌うのは、BOØWY思い出を強く持っていて、さすがに、いくらかのノスタルジーを捨てきれない、ということの証拠ではないかと思う。今回のチャリティーライブは、特に大震災の復興支援、という位置づけでもあり、日本に対して、氷室が伝えられる最大限のメッセージ、ということは考えたのではないか。そして、それは、まさに氷室にとっても最も大切なもの、BOØWYの思い出、であり、大震災ということがあったから、自分のルールを超えてでもやる、ということができたのだろう。

それならばなぜBOØWYでやらないのか、といえば、自分個人がBOØWYの曲ををやる、ということは、まだ、自分自身、氷室京介の範囲内での決意の問題であり、それをBOØWYとしてやる、というのは自分を変質させてしまうことで、別の次元で重大な決意をしなければならないことであり、さすがにそういったことは、思いもよらなかった、というのが正直なところではないかと思う。実際に、「オリジナルのメンバーの気持ちを考えなかったのはよくなかったが、そこまで思いが至らなかった」とコメントしている。また、チャリティーにおいて、余計な要素が入らないようにしたい、と言っていたが、よい悪いは別として、BOØWY再結成となると、チャリティーという要素以上に、それが強調されてしまい、本質がずれてしまう、ということを考えたのかもしれない。ただ、本人にとっては、単に、氷室京介によるBOØWY のコピー、つまり別物、という位置づけだったのだろうが、BOØWYをまるで自分だけの持ち物のように捉えて、物事を進めてしまっている、と外から見れば思われるようなことをしてしまったことについて、オリジナルのメンバーに対して配慮を欠き、悪かった、と、筋を通す氷室らしく感じているように見える。実際に、珍しく、ライブのMCやインタビューでオリジナルのメンバに対する配慮を口にしている。ただ、ここで、氷室がBOØWYをもってきたのは、やはりBOØWYが氷室にとって大切な思い出であることの証拠だ。他のメンバも、さびしく思うこともあるかもしれないが、自分と一緒に実現した夢を、氷室も何より大切に思っている、ということが再確認できただけでも、いいのではないか。

BOØWYの再結成、というのは、ないと思う。しかし、もしあるとすれば、それは、氷室個人のルールを超える理由があるときではないか、と思うが、それは、メンバの誰かが死んだ時、というぐらいしか思いつかない。

唯、個人的には思う。BOØWYの定義は、挑戦である一方、自分の魂に忠実であることであるのなら、内心本当はまたやりたい、お互いがMissing Pieceであることを感じているのなら、相手が死んだ時に、自分が死ぬ時に、後悔するのではなく、素直に、魂に従った方がよいのではないか。当然当時のBOØWYの再現はできず、カッコ悪い姿をさらすかもしれず、いくらかファンの失望は招くかもしれない。しかし、サッカーの三浦和良を見て、カッコ悪いというやつはいない。年をとった時に、あえてそのカッコ悪い姿をさらすことも、昔同じ夢を見たものが再び再会し、当時とは違うが、今でなければできない、しかし、その相手でないとできないBOØWYを新しく作る、ということも、ロックンロールではないか、と個人的には思う。


内心大きな理想を持っていたとしても、そういうのは個人の力で実現させるのは、難しい。自分にはそれができないが、理想を実現させるために必要な要素というのがある。しかし、同じ理想を共有できる同志、そして自分にできない要素を補うことができる同志に巡り会う機会というのは、実は滅多にない。世の中の多くの人は、内心持っている理想を諦めてしまう。人間は孤独だ。だた、もし、魂が求める理想を共有できる同志、自分にはできないが、その理想には不可欠な役割を果たしてくれる同志と巡り会うことができ、共有する理想を共に実現することができたとしたら、それは、一人で実現するよりも何倍も素晴らしいことだと思う。そうした人に出会えるとしたら、それは幸福に恵まれた人生であると思う。


そんな人間関係に憧れる。





以上、本人達の人間関係を傍から推測してなんだかんだ評論するのは、本人達からみれば、当然余計なお世話なのだろうが、そういう対象となるのも有名税だし、逆にこういうのも無責任なファンの特権ということで開き直りたい。個人的な昔の人間関係と重ねて、思い入れてしまった。