久々に時間ができたので、ちょっときつめの仕事が続いたので、最近読んだ本のことなど、楽な気持ちで書いてみる。
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ちょっと前だが、『これからの「正義」の話をしよう」という本を買ってみた。買った後に知ったが、何だか相当売れてるらしい。NHKで、大学の講義が実況中継されているのをみたことがあるが、あれか。
個人的に、内面では「正義」に対する感覚は、人より強いほうだと思っていて、普段仕事などをしているときも、「正義」の定義などは自分なりに結構考える。が、一方、哲学や正義というのは、それ自体を論じても正解がでるものではなく、具体的なケースにおいて、個別の文脈があって初めて判断できるものだろうと思っているし、さらにいえばかなり強いある価値観の表明なので、、「普遍的」な哲学や「正義」を語られるのもうざく感じるところもあり、普通は、この手の哲学本は読まない。(「正義」と「」づけで文章を書いているのもそのためだ。哲学とか正義とかいうもの対してそういった感覚を持っている人も結構いると思う。)
が、そういう「正義」というのをあえて堂々タイトルで語っているところとか、それが、ハーバード大学の超人気講座でテレビでやってたあれであるところとか、あと、普段の読書傾向が、政治や経済なので、たまには哲学の論議に付き合ってみるのもよいかと思ったことなどがあり、買ってみた。
まず、内容なのだが、予想していた内容とは大きく違っており、正直それほど面白くなかった。
タイトルからの印象とは裏腹に、「正義」というのは、政治哲学上の「正義」(あえて具体的に言うと政治体制)についての論議であり、人間社会一般の「正義」についての論議ではあまりないと思う。政治哲学とかいうと、ルソー、モンテスキューとかのほか、本書で出てくるロック、カント、ベンサム、ミル、アリストテレスとかいう話であり、僕は個人的には高校生のときに習って、観念的で無意味なように思えて、ぜんぜん興味がわかなかった、その手の話についてであった。また、人工国家で個人主義の国アメリカ社会、という歴史的に見てもかなり特殊な社会を前提として「正義」について論じられているので、あまり論議の内容にピンとこなかった。政治哲学の、しかもアメリカ社会向けの論議なのに、この本が何で日本で売れているのかよくわからない。アマゾンの書評でも相当たくさんコメントされているが、日本人の一般的な人はほんとにこんな論議に興味をもつものなのか、不思議でしょうがない。書評のコメントも「わかりやすい」とあったが、個人的には結構難しいと感じた。僕などは、一読してそれほどはっきり理解できなかった。(理解しようとする興味もあまり沸かなかったのだが。)
「アメリカ社会における政治哲学上の正義の定義とそれを具現化するあるべき政治体制」の解説書と捉えれば、それなりにわかりやすく書かれているのだろうと思う。(正直、本が売れているのは、この内容をごまかし、「正義」という実は人の内面にとって重要な内容を扱っているようなタイトルになっているからじゃないかとさえ思う。)
まあ、中絶、移民、同姓婚、大きな政府と小さな政府、など米大統領選の論争や、西洋的な法律を理解するという目的なら、その裏にある概念的な考えが論じられているので、そういう意味ではまあ面白い。
正義というと人により好みが結構出ると思うが、僕なりの好みとしては、正義というのは社会や公益と結びつく、という考えなので、個人についての論議が続いている辺りは個人的な考えとはちょっと違っている、あるいは、個人的には興味ない論議であり、、最後にやっと自分が好きな論議が出てきた、という感じだった。
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さて、本の内容とは、全然関係ないが、せっかくなので「正義」ということについて自分なりの考えを書いてみたい。
そう思い、正義が議論となるようなケースをいくつか上げてみたが、それらを一律的に定義できるような論理的な定義をすることができなかった。ただ。正義というものは、まず正義を感じる直感があるのであり、それを説明する理論はその後にくるようにも思うので、別に論理的でなくても、一律的でなくてもよいと思う。ただ、その直感の根拠となる感情は、明確に存在するし、個人的には、特に重要な判断である程、正義の定義はかなり厳密にする方なのでその根拠も考えてみたい。
・昨日、捕鯨反対の映画である、The Coveについての報道があり、捕鯨反対団体のやり方は、正義に反する、とかなり頭にきた。
・ポルポトの悪は議論の余地はないが、そうした体制を容認し、支援したアメリカと中国の姿勢は腹立たしかった。
・日系人の強制収容に対して戦ったラルフ・カーに感銘を受けた。
・アメリカの急進性と日本の国粋主義に対してともに戦い日本を再建した吉田茂を尊敬している。
・十字軍、というものに何のロマンも感じない。
・ユダヤ迫害の時代に、ユダヤ人をかくまった人がいたこと、それに対して今も感謝の念を忘れないイスラエルに感銘を受けた。
・イスラエルのガザ空爆やイラク戦争をみても、それほど怒りの感情は沸かない。
・鳩山由紀夫は戦後最低の総理大臣だと思う。ついでにいうと彼が尊敬するというケネディーもあまり好きじゃない。
・「二つの祖国」では、主人公より、アメリカに忠誠を誓って戦死した弟に共感する。
・大東亜戦争で日本が悪かったといって謝罪するという姿勢は偽善的であるように思う。
・北朝鮮が核兵器を保持するのはやむをえないと思う。
まず、個人的には、「正義」とは、「公的利益」であると、単純に定義している。(ゆえに、リバタリアニズムが正義、というのは何じゃそりゃ、という感じ。)主観的にいえば、正義の反対は、身勝手である。個人的に、判断にあたり、正義を定義するにあたり、「公的利益」とは何か、まず考える。正義とは普遍的か、というのはかなり難しい論議だと思うが、とりあえずユニバーサルな響きがあるからこそ正義という言葉には美徳を感じるものであると思う。なので、厳密な論議はさておき、とりあえず、主観的考えを捨て、自己と他者の利益を神の視座で見て、双方に適用可能な原則を追求することがまず必要になる。もし相手に同じことをされたら自分の非を認めるか、というときに認められる、という場合にのみ、(自分の解釈としての)正義を主張できると思う。ゆえに、正義とは、原則的、客観的なものだと思う。人間が原則的、客観的な存在になれるか、というのはこれまた難しい論議になるが、少なくともそうあろうと追求する姿勢は必要になると思う。
また、公的利益を考える場合、たとえば、公を国家であるとか、会社であるとかケースによっていろいろあるが、どのような行為が長期的な国家の利益を達成するかは、視野を広げ、複雑な洞察を経て初めてわかることであると考える。もちろん未来なんてわからないから、その見通しが外れることもあり、結果から見れば、この定義に沿うと行いは不正義だったということになることも実際少なくない。そういう意味で、正義、つまり、長期的な公的利益とは何か、というのは、悩まねばならないし、後から見てもし誤っていたら反省すべきであると思う。正しい動機が正しい結果につながらないという悲劇は、往々にしてある。
しかし、一方、正義を判断基準と捉えると、後から過去を振り返り、今、つまり当時から見ると未来がどうなった、ということは、実はどうでもよい。ただし、まさに決断をするその瞬間に、視野を広げ、複雑な分析を行う意思をもっていたか、それとも主観的な感情に酔っていたか、は十分に検証される必要がある。たとえもし、結果が悪かったとしても、少なくとも、まさに決断をするその時に、自分として最大限熟慮し、長期的な公的利益に資すると定義した内容を、行動に移した、のであるならば、それでよいのではないかと思う。そうでなく、私的利益を正義と主張する、評論はしたが行動しなかった、ということについては考える必要があると思う。つまり、公的利益、つまり、個人的な正義の定義としては、正義とは、客観的、科学的、原則的、分析的であり、行動基準となる定義を行うことから、具体的、という性質をもつものであり、語感からくる印象とは裏腹に、正義とは、覚めたものであると思う。
こう定義しているがゆえに、私的利益を、正義と主張するような姿勢には、違和感、もっというと怒りを感じる。半捕鯨団体に怒りを感じるのはこのためだ。彼らの主張は、主観的、感情的、党派的なものであり、これについて、「われわれの私的好みに反する。」と堂々身勝手を主張するならまだよいと思うが、これを普遍的正義と偽装するのは正義を装った大きな不正義だと思う。
さて、正義という言葉を聞いた時に、おそらく日本人なら多くは感じると思うが、「正義」にはこういう危険がある。自らの考えを「正義」と捉えると、それに反するものは「不正義」であり、不正義に対しては、何をしてもかまわない、という理屈が生まれ、歴史上このようなロジックの元に大きな破壊が起きる。正義というのは、行動基準だとすると、行動基準、というは本質的に主観的なものであり、本質的に、何か対立する考えや現象があって始めてその正義の存在は明確になるというところもある。「正義」と「戦い」、という言葉の組み合わせはよくあるし、よく合う。
そうすると、正義などというものは有害な虚構なのだろうか。利用の仕方によってはそのようになる危険性も十分にある。しかし、個人的には、そうした見解は取らない。こうした考えは虚無的な考えであるように感じる。正義というのは、美徳であり、ロマンを駆り立て、判断し、行動を起こす基準となるものであり、たとえそれが主観的だろうがなんだろうが、こうしたところに正義に積極的な意味があると考える。個人的な考えとしては、正義を積極的に位置づけると同時に、自分の正義について、100%の客観的正義、と認識することに注意する、という姿勢をとっている。つまり、正義を定義するにあたり、なるべく客観的に定義しようと考えるが、一方それが自分の主観的解釈という自覚を持っておくことも一方重要である、と考えだ。(ただし、せめて、主観的感情ではなく、主観的解釈ではありたいが。)こうした姿勢が、逆に正義の客観性を強化するものになると思う。自分の定義がどれだけ客観的なのか、というのは誰でもわからない。しかし、それを自覚し、自分の正義について絶えず考え続けるが、一方、自分の考えた正義のもと、覚悟をもって行動を選択する姿勢に、人間の偉大さがあるのではないか。
何が正義か、ということを考えると同時に、正義というのは、それが、行動と勇気を呼び起こし、人を感動させる、ということに意味があると思う。つまり、我流の解釈をすると、評論というのは正義ではない。(厳密に言うと、評論自体もひとつの行為だが。)。哲学や正義論が個人的に嫌いだったのはまさにこうした理由で、自分の生活から離れたところで、観念的に正義を論じたところで無意味であり、それ自体正義を虚無的にする発想のように思えてしまう。正義というのは、何も難しい論議を前提とするものでなく、素朴な感覚だったとしても、それを基準に行動するか、という実践のほうが論議自体より遥かに重要ではないかと思う。そして、おそらく昔の日本より今の日本の方が、正義、という感覚はそうとうなくなってきており、ここがなにより問題なのではないかと思う。
「正義」というのは、公的利益に対して、自分が感じる義務の意識であり、公の範囲についての自覚と、長期的な公的利益への洞察であり、それに基づいた行動である、というのが、僕なりの正義の定義だ。
初代西独首相コンラート・アデナウアーが、最後に首相の座から降りるとき、長年の政敵が立ち上がり、「総理、あなたが1954年にNATO加盟を強行したのは正解でした。」と発言したそうだ。敵を見やったアデナウアーは、冷たくこう言い放った。
「きみと私の違いは、正しいときに正しい決断をしたことである。」