イスラエル、特にエルサレムは、古代のユダヤ王国の歴史があるだけでなく、何故か、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大宗教の聖地が、ここに重なっており、旧約聖書、新約聖書の舞台、ムハンマド昇天の地です。
それゆえに、東ローマからイスラム国家など別の宗教の国に代わる代わる支配され、特に、十字軍の目標となって、その争奪の歴史の中心でした。
それだけでなく、近代では、オスマントルコ統治から、英国支配下となり、その間に、ローマ帝国以来、離散された民族が、ここに集まり、ヨーロッパでのホロコーストを経験した後、ユダヤ国家を建設、さらにその後も4つの中東戦争を戦い抜き、今も、国際社会の大きな課題の一つであるパレスチナ問題の中心となっている国で、イスラエル以上に、世界史、さらには現代国際政治の大事件、物語の舞台となった国は、ないんじゃないかと思うくらい特別な国ではないかと思っていました。
生きている内に、一度は絶対にいっておきたい、という望みが叶いました。
忘れない内に感想を書いておきます。
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今回は、合計10日の旅だ。
東京→(イスタンブール)→テルアビブ→エルサレム→エイラット→ワディ・ムーサ(ぺトラ)→エイラット→テルアビブ→イスタンブール→東京
GWだというのに、豚インフルエンザの影響で、空港は結構すいており、皆マスクをしていた。が、イスタンブールでもテルアビブでも、マスクなどしている人はほとんどおらず、こんなに気合の入っている国は日本くらいなのか、と感じた。
テルアビブの町の印象は、「思ったより栄えてない」というものだった。
EUにも準加盟しており、一人当たりのGDPも15000ドルほどで、優秀な人を多く輩出しているで有名なユダヤ人の国家なのだから、いわゆる先進国のイメージを持っていたが、いわゆる先進国の大都市、のようには感じず、途上国の都市のように感じた。建物は古く、清掃が行き届いている感じもなく、色気がない。的を射ているかはさておき、個人的には、マニラを連想した。到着日はちょうど土曜日で安息日であった為、町もガラガラであり、見所もほぼしまっていた為、閑散としており、余計にさびしく感じたのかもしれない。ジョギングしている人を傍目に、地中海岸(テルアビブは、地中海に面している)を下り、ヤッフォ地区を少し回ってみたが、あまりにもテルアビブが何もなく、閑散としていたので、当初一日ゆっくり滞在する予定だったが、時間がもったいないと感じ、その日いきなり、エルサレムにいくことにした。イスラエルは、このほか、エルサレム、エイラットという町を回ったが、この印象は、どこも同じで、先進国のようには見えなかった。帰りに寄ったイスタンブールの方が、段違いに大都会であり、一人当たりのGDPから考えてギャップがあった。(ただし、トルコは、イスタンブールとそれ以外は大きく違うような気がしないでもない。昔、エフェスという町にいったが、イスタンブールとはぜんぜん違っていた。)
エルサレムという町は、首都(と、イスラエルが主張しているが国際社会は認めていない様子)であり、世界中のユダヤ人から、資金が送られ(というようなことが、ガイドブックとか本に書いてある。ちなみに、ユダヤ人が最も多く住む国はアメリカ)、ユダヤ人も誇りを示す為にも、エルサレム、特に、建国時からイスラエルが支配していた西エルサレムは、開発され、近代的なビルが立ち並んでいるんじゃないだろうか、と予想していたが、新市街と呼ばれるいわゆる繁華街であっても、なんとなくさびしい感じであり、かつ建物も古く、最近どんどん開発を進めている、という感じのようにも見えない。イスラエルは、中国のように近年急成長を遂げている、という状況でもないのだから、別にこれから急激に開発が進む、というのも予想しづらい。(とはいえ、一部は、いわゆる最先端の商業施設、住宅なども見られた。(旧市街の西の外縁部あたり)。なぜ最近なんだろう。)
イスラエルを歩いていると、やたらに国旗が目に入る。いろんな建物や、道に掲揚されている他、車に小さな国旗をつけている人は多い。こういう光景はドイツでも見た。まあ、友好的でない国に囲まれて、それを自力で防衛せざるを得ない他、さまざまな国からきたユダヤ移民を統合する為に、ナショナルアイデンティティーの強調が必要なのだろう。(そういえば、移民の国アメリカも、国旗が好きなようだ。)
後、目に入るといえば、妊婦さんや小さな子供が多いということだ。調べてみると、イスラエルの出生率は、西側ではやっぱり一位らしい。これは、滞在中は、イスラエルの地をユダヤ人の生存空間として正当化・定着化する為に、ユダヤ人の数を増やす必要があり、その為、移民を奨励する他、出産も奨励する政策が採られているのかな、などと思っていた。しかし、今調べてみると、そういった内容は見つからず、宗教教育を受けている影響でそうなっている、という説明があり、また別の説明では、パレスチナ人の方が子供をつくり、ユダヤ人は人口で、アラブ人より少なくなってしまう、ということが今イスラエルで問題になっている、といったように僕の印象とは違う記述もあった。
日本人にイスラエルに行く話しをすると、安全か、ということをまず聞かれるが、当たり前といえば当たり前だが、町では、兵役の若者をよく見かけ、普通に、軍服を着て、ライフルを持ちながら、バスで携帯電話で会話していたり、ホットドッグをつまんだりしている。特に、これも考えてみれば当たり前なのだが、女の子のソルジャーもよく見かける。前に、NHKの番組で、最近のイスラエルの若者を兵役を避ける傾向にある、というようなことをやっていたが、町を歩く限り、そんなことはなく、男女共に粛々と兵役を勤めている様子だ。そんなのんきなことを、と言われてしまいそうだが、国に対する義務を地道に果たしている、という姿勢に好感した。ちょっと前に、大前研一のコラムで、日本も兵役を導入し、若者に修行させろ、みたいなことが書いてあり、この人も自棄になったかと感じたが、実は個人的にも、日本では実現しないだろうが、人生修行という意味で、成人への過程で兵役がある、というのはよいことだと思っている。実際、サマワに派遣された若者達の親から、その帰還後、「うちの息子をよく躾けて下さいました。」と感謝された、と麻生さんは、話しているし、田母神さんは、自衛隊の教育は大きな成果を挙げている、と胸をはる。教育というのは、知育の他、体育、徳育がバランスよくなされる必要があると思っているが、戦後、特に最近の日本では、体育、さらに、徳育が軽視されているように思う。今の日本人的感覚からいうとずれているのだろうが、義務の観念や、規律、勇気、精神力という意味で、今の日本人は弱くなっているように見える。ちょっとずれるが、体力と精神力は、結構紐づくが、知力と精神力は紐づきにくい。今の社会は、知価社会なので、当然知力が重要視されるが、そこに、精神力の裏づけがないと、それはひ弱いものになってしまうのではないかと思う。(一昔前の「受験戦争」が、ばかばかしい響きに聞こえてしまうのも、それが隔たった知育のみに集中している印象を与えるからだと思う)。大久保利通、小村寿太郎、吉田茂、盛田昭夫などは、強い精神力と愛国心を持って、知力を武器に世界と戦った人たちだが、例えば、普通のビジネスマンであったとしても、そういう資質が必要とされるのは変わらないのではないかと思う。
特に、女の子の兵士、というところがとてもよいと感じた。個人的に、男女平等主義者なので、女性も男性同様に義務を果たす、という哲学には共感できる。個人的に、高校時代から、自主自立、独立独歩、の思想を植えつけられている為か、人、特に女性を保護する対象、ちやほやする対象とする考え方は好きでなく、そういう考えは、人を駄目にすると思うし、愛される対象を演じている女性は、女の子として可愛くても、人としてみると尊敬できないと感じることが多い。ところで、一方、女の子の兵士は、みんな可愛く見えるから不思議だ。若くて可愛いのに、義務をしっかり果たしていて偉いな、という感覚と、不要に派手な装飾で着飾っていないところが、かえって、美しさを際立たせているからではないかと感じた。
エルサレム:
まず、調べてみると当たり前なのだが、聖墳墓教会、嘆きの壁、石のドーム、などいわゆる見所は、エルサレムのうち、「旧市街」という地区に集中している。3大宗教の聖地ということで、どんな厳かな雰囲気を見れるのだろう、と思っていたが、期待は見事に裏切られた。
その旧市街は、城壁都市であり、その中は、迷路のような小道になっていて、第一印象は、ともかく、迷う、ということだった。僕は、旅に出ると、なるべく自分で土地勘をつかみたい為、できるだけ歩くようにしているが、そんな僕でも、半日ぐらい、その小さな小道をぐるぐる回って、やっと旧市街がどんなのかつかめてきた。とりあえず、なかなか空が見えない。とりあえず、嘆きの壁、とか、聖墳墓教会などは、思ったよりぜんぜん見つからない。
二つ目に思った印象は、バザールっぽく、雰囲気は、カイロの、ハーン・ハリーリや、イスタンブールのバザールに似ているというものだ。聖所だから、歴史的建造物のみある、ということは、ぜんぜんなく、そのバザールの中で、みんな普通に店をやっており、よくある観光客相手のみやげ物やがあるだけでなく、床屋や、家電製品、スナック菓子を売っている店などもも、その旧市街の入り組んだ小道に面して商売をしており、皆普通に生活している。ついでにいえば、どこの国の観光地とも同じように、「My Friend」を連発し、握手を求めた後、道案内してやったから、金をよこせとか、いってくるようなやつらもでてくる。そういう意味も含め、ヒンズー教の聖地ナバラシとも似ているようにも感じた。「聖地」というのは、決して、うわべだけ聖なる場所などではなく、神は懐深く、寛大であり、このように、生活の匂いの中で、さまざまな人種、人間が複雑に関係しあい(後で書くが、この旧市街は、独立戦争、六日間戦争で激戦が繰り広げられ、建国時から今に至るまで、テロが引き起こされている)、人間が、良くも悪くも一番人間的である場所こそ、聖地にふさわしい、ということなのだろうか。
旧市街は、ユダヤ人地区、イスラム教徒地区、キリスト教地区、アルメニア地区に分かれているのは有名な話だが、そういうバザールみたいなところの店の人は、浅黒い肌、つまりアラブ人のように見えた。(まあ、そこはダマスカス門周辺で、イスラム地区なのだが)。一方脇の方を歩いていると、シルクハットに、黒いスーツを着た、超正統派ユダヤ教徒(ところで、ユダヤ教なのに、民族衣装がなんでこんな近代的なんだろう?)、頭に、キッタとよばれる帽子というか布をつけている正統派ユダヤ教徒などもさすがによくみる。ところで、兵士の中にも、このキッタをつけている兵士は結構多い。
さて、この歩いて回れる城壁の中に、よりにもよって、ヨーロッパ・アフリカ世界の3大宗教の重要な場所が集中している、しかもそれゆえに、十字軍の時代だけでなく、現代もここ(まさにエルサレム旧市街)を中心に争いが起こっている、というのは、なんとも不思議でなんとも因縁めいたものを感じる。ただ、生活臭が溢れていただけかもしれないが、そういう場所に立っているとなんだか疲れてきてしまい、宿は、別の地区に取ったぐらいだ。イギリス統治以前は、忘れ去られた、汚い街だったエルサレムが、1948年の独立戦争以前は、ユダヤ人とパレスチナ人のテロによる殺し合いのまさに中心であり、独立戦争後は、ちょうど、この旧市街の西端のヤッフォ門辺りを境に、南北に境界線が引かれ、エルサレムは東西に分かれ、壁が築かれ、イスラエルのヨルダンとの対立の物理的、精神的な最前線となってきた。六日間戦争(1967年)で、ヨルダンからここ(大きくいうと東エルサレム)を奪い、奪った際には兵士達は、嘆きの壁を前に、感涙したそうだが、国際社会はこれを認めず、現代でも、国際社会で、東西エルサレム問題、として問題になっている。現地にいると、そうした「境界」も「殺し合い」も想像できず、普通に人々が生活し、観光客がいるのだが、そういう歴史があった場所に立っていると思うと、感慨深い。
(今日はここまで。)