マヨネーズ物語

8月15日


昨日も美味しいから作ってとお願いして、ヘルパーさんにタップリと、シーチキンキュウリマヨをこしらえて戴きました。
今日はマヨネーズの話を少し。
キューピーマヨネーズのサイトによりますと、発祥の原点はこのようなことだったのですね。

「18世紀半ば、メノルカ島(スペイン)での出来事です。当時イギリス領だったこの島にフランス軍が攻撃をしかけました。その指揮をとっていたのがリシュリュー公爵。戦火の中、公爵は港町マオンで料理屋に入り、お肉に添えられたあるソースに出会いました。

そのソースを気に入ったリシュリュー公爵は、後にパリでそのソースを「マオンのソース」として紹介しました。それが「Mahonnaise(マオンネーズ)」と呼ばれ、その後「Mayonnaise(マヨネーズ)」となりました。これがマヨネーズの最も有力な起源説といわれています」
そしてそれを日本人向けに開発したのがキューピーの創業者、中島董一郎さん。
リシュリュー公爵がパリでマヨネーズを紹介した約160年後、アメリカで缶詰の研究をしていた中島は、この国で毎日たくさんのポテトサラダ、野菜サラダが食べられその中心にマヨネーズがかかっていることに日々感激していました。そして、日本人向けにもっと美味しく、栄養価の高い製品を、と卵黄の量を二倍多くしたマヨネーズを考案、世に出しました。
関東大震災後の復興をきっかけに、街には西洋化の波が押し寄せました。衣食住の洋風化が進むのを見て、マヨネーズが受け入れられる時がきたと確信した中島は、1925年3月ついに日本初のマヨネーズの製造に踏み切ります。商品名はキユーピー マヨネーズ。誰からも愛されるようにと名付けられました。

初年度の売り上げは120箱(600kg)。マヨネーズという言葉さえ知られていない時代だったので、整髪料(ポマード)と間違えられたというエピソードもあるほどです。
マヨネーズはやがて世間に広まり、1941年の年間出荷量は10万箱(約500トン)近くまで伸びました。しかし、第二次世界大戦のために原料入手が困難になると、「よい原料がなければマヨネーズを作るべきではない」と製造を中止。その後、製造を再開したのは終戦から3年たった1948年のことでした。

卵黄がたっぷりで、コクとうま味のあるキユーピー マヨネーズは日本の米食文化と相性もよく、徹底した合理化によって価格も下がり、マヨネーズ市場は飛躍的に発展しました。現在、マヨネーズは家庭に欠かせない調味料のひとつになっている、そんな話でした・・・。

 フェイスブックの友達に平成天皇の料理人が居ますが、高校の同窓に先ごろ叙勲を受けたTがいます。彼は皇宮警察官として長年皇室警護に専心し、先ごろ地元に帰って来られていると聞いていましたが、数日前から電話が幾度か入って「近く見舞いに行くから」という。嬉しいものだ。平成天皇はとりわけ素晴らしいご人格お人柄の方と思っています。配偶者として美智子様への接し方は勿論ですが、父が起こした戦争の責任の取り方として、国民全体はもとより、特に言葉に表せないほどの甚大な被害を与えた沖縄への償い方に心を痛めてきました。なかなかできることではありません。そんな大事な平成天皇を何十年も警護で守り通したT君、天皇のつもる話などうかがいたいものです。

 8月15日の誕生花は、「モントブレチア」です。

モントブレチアという名前は、フランス人の植物学者チャールズ・モントブレッドという人名が由来となっています。
この人物が、モントブレチアを交配させたんです。

南アフリカが原産地のこの植物が、日本にやってきたのは明治時代です。
夏頃に開花させるモントブレチアは、日本では夏の花としておなじみです。
そんなモントブレチアの花言葉は、「陽気」・「楽しい思い出」・「良い便り」です。
これらは、オレンジ色の明るい花の元気いっぱいに咲く様子から連想して付けられました。