元就散歩⑥~元就初陣・有田中井手の戦い | 大根役者

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毛利元就が歴史の表舞台に登場するのは、他の戦国大名に比べ遅かったのだが、歴史は、彼を待ち続けた。

当時、中国地方は代々守護の家系である名門、大内氏と、出雲守護代から戦国武将へ転身した尼子氏がせめぎ合っていた。両者は中国の覇者となる野望を持ち、せめぎあっていた。他の国人領主は存続のため、どちらかの陣営に属することを余儀なくされていた。毛利氏もその弱小国人領主の一つだった。

武田氏は、承久の乱の戦功で鎌倉幕府により、5代武田信光が安芸国守護に命じられた名門だ。代々、守護代を置いていたが、元寇への備えで、7代、信時の時代、佐東銀山城(金山城)を築き、本格的な領土支配に乗り出し、城下町も作られ、繁栄していく。その後、建武の親政時に10代信武は、幕府方におり、後醍醐天皇方の甲斐守護、武田政義の後塵を拝したが、南北朝時代に信武は足利尊氏側におり、戦功をあげ、甲斐、安芸両しゅごとなった。信武の子信成が、甲斐守護、氏信が安芸国守護を継承した。この氏信が初代安芸武田氏となり、この時代に登場する武田元繁は4代目当主となる。

ただ、この時代の名門・武田氏はすでに守護から分郡守護に落ち、佐東・安芸・山県郡を治めるだけで、大内家の勢力下にあった。

山陰を本拠とする尼子氏の南下の勢いは激しくなり、将軍・足利義稙を奉じて上洛していた大内義興は不安を抱いていた。すでに安芸では尼子の策略による抗争が各地で頻発していた。義興は自身の養女(飛鳥井雅俊女)を元繁に娶らせて帰国させた。

これを元繁は武田氏の勢力を拡大する好機ととらえた。

妻・飛鳥井雅俊女を離縁し、尼子氏の娘(経久の弟・久幸の娘)を妻にし、尼子の力を借り、名門・武田氏の復活を図った。
元繫は厳島神社の神領を侵し、さらに己斐城(現在の小茶臼山)を攻めた。この際、毛利興元と吉川元経は義興から後巻(逆包囲)を命じられ、武田方の山県郡にあった有田城を落とした。この城はもともと吉川氏のものであり、吉川元経に与えられ、吉川配下の小田信忠が城主についた。

元繫は己斐城の包囲を中断させられ、さらには有田城までも奪われ、当事者である毛利に矛先を向けた。
毛利興元は永正13年(1516)に酒毒のため、急死した。25歳だった。当主は嫡男。幸松丸が継ぐことになった。幸松丸はわずか二歳だった。興元の弟である猿掛城にいた多治比元就が後見を務めることになった。興元の死は、元繫にとっては願ってもないチャンスだった。

興元の死から1年後、永正14年(1517)10月3日、元繫は近隣の豪族に呼び掛け、味方に組み入れた三入高松城主の熊谷元直、八木城主の香川行景、己斐城の己斐宗端ら5000余騎を引き連れ、有田城を包囲した。

10月21日、武田軍の熊谷・山中・板垣らが600騎を率いて毛利領の多治比に出撃し、民家に放火して毛利方を挑発した。元就はすぐさま150騎を繰り出し、武田軍を撃退した。戦機は熟したと見た元就は、毛利本家ぎる吉田郡山城への救援を要請し、弟の相合元網、桂元澄、井上、坂、渡辺、福原、口羽、赤川、粟屋、児玉氏を主力とする毛利本家の700騎と吉川氏からの宮庄経友率いる援軍300騎と合流して、武田軍に当たることになった。

義興はこの窮地に、周辺の竹原小早川氏や平賀氏、天野氏らにも参陣を要請したが、いずれも動くことはなく、情勢を見守るだけだった。

10月22日、毛利と吉川の連合軍は、武田本陣に奇襲攻撃を仕掛けます。奇襲をかけたのは猿掛城から出陣した毛利元就の隊だった。
これに熊谷元直が率いる武田の本陣は不意を突かれ、主力の兵を多数失うことになり、前線で戦っていた熊谷元直も矢に当たって亡くなり、将が不在となった武田軍は一気に勢いを失った。

元繫は自身が指揮をとり、一時は毛利・吉川連合軍を追い詰めるところまで勢いを取り戻したが、最前線まで出た元繫は流れ矢に当たって命を落とした。
将を失った武田軍は敗走。翌日には己斐氏、香川氏が毛利軍を攻撃しますが、これも討ち死に。武田勢力はこの戦いで一気に主力を失い、以降弱体化の一途をたどることになる。後に武田氏の命脈を経つのも毛利元就だった。

圧倒的な大軍を少数で破った戦いとして、後に「桶狭間の戦い」になぞらえ、「西の桶狭間」と呼ばれることになる。桶狭間は時代の変換のキーワードともなるが「有田中井出の戦い」は、元就にとっても後の歴史のキーワードともなる。初陣・初勝利だったのだが、元就が総大将ではなかった。
この時点では毛利の当主は幸松丸であり、主力は毛利家譜代の旗本である国司、児玉、三戸らでした。当時「多治比殿」と呼ばれていた元就は、毛利本家の勢力に加わっただけだった。
古戦場は有田城の外堀の役割を果たした又内側に沿っている。各武将の碑が往時を伝えるだけだ。

道の駅「舞ロードIC千代田」の裏に流れる冠川の向かい側にある民家に「熊谷元直の墓」がある。

正面に見えるのが有田城跡だ。

又内川

このあたりが中井手

 

 

 

 

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だ。

又内川沿いに歩く。

有田城跡登山口

中国自動車道まで歩くと「戦国武将己斐豊後守師道戦死之地」の碑がある。この碑まで行くのには中国自動車道下のフェンス沿いの側溝をフェンスをつかみながら進まなければならない。

又内川沿い、有田城の下に「武田元繁戦死之地の碑」がある。

松尾芭蕉は義経の最後の場所を訪ね、500年後に「夏草や 兵どもが夢の跡」と詠んだが、毛利元就の初陣の場所も静かな田園風景が広がっているだけだ。

 

元就はこの時には、多治比家という毛利の一家臣だった。京にいた義興は元就の働きぶりを聞き、「多治比のこと神妙」という感状を与えている。元就は、この戦いではじめて大内義興に存在を知られることになる。名門・武田氏を相手に戦ったことが大きかったのだろう。

その後、毛利家は勢いを増し、南下する尼子経久の率いる尼子氏に従属するようになる。

大永3年(1523)7月15日、毛利幸松丸がわずか9歳で死去する。分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎ、中国の覇者となる道を進むことになる。

 

毛利家存続のため、元就が行った非情の行動があるが、すべては、毛利家存続のためだった。

次回は今義経と言われる相合元網のことを書いてみよう。