元就散歩①~毛利公居館御里屋敷跡から毛利元就公墓所へ。 | 大根役者

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今年は、毛利元就郡山城入城500年、安芸高田市吉田町では、この一年間、色々なイベントが行われた。

平成9年(1997)NHK大河ドラマ「毛利元就」が放映されたときのサブタイトルは、毛利元就生誕500年記念作品だった。

主演は中村橋之助(現八代目中村芝翫)だった。色んなジャンルから、出演者を求め、各々のキャラクターが役とマッチした珠玉の大河ドラマだと思っている。後にイチロー、真田広之を虜にした僕の大好きな女優、葉月里緒奈が、村上水軍の娘役で出ていたことをいまだに記憶している。

 

毛利元就の全国的知名度は、信長、秀吉、家康には劣るのだが、元就の存在がなければ、現在の日本は存在しないと言っても過言ではない。

 

民俗資料館から郡山城へ向かう。

御里屋敷跡の案内石柱がある。

毛利元就の居館「御里屋敷」が、城の南西麓にあったとの伝承がある。現在の「少年自然の家」が「御里屋敷」だと言われている。

毛利元就の像がある。

戦後建てられたた「三矢の訓跡」n石碑が建てられている。三人の子供を集め、矢を折らせ、一本の矢は折れるけど、三本の矢は折れないだろうと兄弟が一致団結することが大事だと説いた逸話は創作だ。萩にある毛利博物館に所蔵されている元就自筆の「三子教訓状」が子の逸話の元になっている。子供たちが一致団結し、無理宗家を末永く盛り立てるようにとの教訓だ。

 

 

 

 

 

 

広島県立青年学校教員養成所跡碑の石碑が史跡郡山城址の石碑と並んで建っている。広島青年師範学校から、広島大学教育学部に至る広島の教育史が郡山城麓に存在していたことが興味深い。

元就の死後、初7日の法会後に、竹原妙法寺(現在の西方寺)の住持 嘯岳鼎虎禅師を導師に火葬された。この場所が、その伝承地だ。

日本百名城の石碑が大通院谷川砂防公園の駐車場に「日本百名城郡山城」の石碑が建てられている。この砂防公園は、土石流災害防止事業は毛利元就生誕500年の頃から計画され、発掘調査が行われた。

 

西谷地点石垣跡
郡山城跡の西谷に造られた郭の一角だ。。

毛利隆元墓所

吉川元春、小早川隆景の兄である毛利隆元は名将だ。陶氏との断絶を主張したのは隆元だ。元就が全幅の信頼を寄せていたが、永禄6年(1563)、隆元は41歳で佐々部(安芸高田市高宮町)にて急死した。翌年元就や元春、隆景によって菩提寺、常栄寺が建てられ、寺には正親町天皇執筆の「常栄広刹禅寺」の額が掲げられた。寺は、後に山口に移動した。雪舟庭園で、知られる常栄寺だ。

大通院谷遺跡は毛利元就墓地参道の前、郡山城の西麓にあり、遺跡の名称「大通院」は元就の曽祖父煕元の菩提寺を語源としている。しかし、この谷の奥にあったのは大通院ではなく、元就の祖父豊元の菩提寺広修寺であったとも考えられている。

 

遺跡からは古代から中世にかけての遺構・遺物が出土した。遺構は古代高宮郡衙関連の建物、中世では薬研堀、屋敷跡等が検出され、遺物は多数の陶磁器・木製品・金属製品等が発掘され、これらの一部が安芸高田市歴史民俗資料館で展示されている。

毛利元就墓所へ進む。

元亀元年(1571)、元就は75歳で生涯を閉じた。元亀4年(1573)、孫の輝元によって菩提寺、洞春寺が建立され、境内に墓が建てられた。開山は嘯岳鼎虎禅師。寺号は元就の法号日頼洞春大禅定門による。天正15年(1587)十刹に列し、2,300余石を領した。毛利氏居城の広島移転に伴い、当寺も移転した。関ケ原後、毛利氏が防長二国を領するにあたり、寺も山口に再転、しばらく香積寺を牌所としていたが、慶長11年(1606)萩城内に移った。文久三年(1863)藩庁が山口に移ると、寺も再び山口に戻り、当地にあった大通院洞春寺とした。

毛利元就の墓に上る参道階段の下に毛利一門の墓所がある。

右端は時親から8代豊元(元就の祖父)までの合墓で、元は大通院谷にあった。正面左から元就の兄・興元とその子・幸松丸と隆元夫人の墓が並んでいる。

毛利元就の墓へ上る。

一百一方一心と読むのが正しい。百万一心では、この言葉の真の意味が伝わらない。

元就は元亀2年(1571)6月14日、御里屋敷で生涯を閉じた。享年75歳の初夏だった。
墓標には「はりいぶき」が植えられ、3回忌に菩提寺洞春寺が建立された。

嘯岳鼎虎禅師の墓

嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)を元就はしばしば吉田に招き入れた。禅師は2度も明に渡り、帰朝後、丹波高源寺、京都の建仁寺、南禅寺を歴任していましたが、元就の要請により竹原妙法寺の住職となった。
元就逝去の際には禅師を葬儀の導師また三回忌には禅師を開山として、菩提寺洞春寺を建立した。慶長4年(1599)72才で没している。

 

 

 

 

 
 
この地に生まれ、この地で没した毛利元就がもう少し早く、歴史の表舞台に出ていたらなんてことを言ってはならない。一国人領主元就が尼子氏、大内氏を滅ぼし、中国と九州の一部を支配する歴史は、尾張を中心とした歴史よりも面白い。布団の上で、生涯を閉じた元就は幸せだった。隆元を早くに失ったことは、残念だったけど、元春、隆景は忠実に遺訓を守った。輝元が叔父に従っていれば、歴史は変わったのだが、家康に信頼された元春が、毛利を再び世に出していく。
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