乗福寺~山口県山口市大内御堀 | 大根役者

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山口市御堀にある乗福寺に行ってきた。

 

参道の裏手から、入ったのだが、廻りは、新興住宅地と田畑だった。

裏門から入ると、鳥居があった。

大内氏の始祖、琳聖太子の供養塔、大内重弘の墓、大内弘世の墓がある。

山門に廻って、正面から、改めて、お参りする。

山門ならびの土塀に歴史を感じる。

寺伝によると、正和元年(1312)大内重弘が建立。元応2年(1320)開基の大内重弘が没し、乗福寺に葬られ、以降、菩提寺となる。山号は南明山。臨済宗南禅寺派、本尊は聖観音。

 

建武元年(1334)勅願寺とする御醍醐天皇の綸旨が下された。同5年には五山制度に基づく、諸山に列せられた。五山、十刹に次ぐ位置で、大内氏の往時の力が偲ばれる。二世鏡空浄心が臨済宗の法幢を立ててから。宗派が広まり、乗福寺は国初禅林と呼ばれる、大規模な寺院となった。

 

貞和元年(1345)足利氏は国ごとに一寺一塔を建て、寺を安国、塔を利生と称した時、乗福寺の塔を周防の利生塔とし、寺格を甲刹(かっさつ)に準じた。足利義時の時には、十刹になり、中国地方の名寺の一つとなった。室町時代の寺領は一千余石だった。

 

当時の乗福寺

往時は、塔頭36宇、末寺88か所あったが、大内氏滅亡後は衰退した。毛利隆元は、大内氏滅亡の際焼失した山口町の竜福寺の再建に際し、その材として塔頭の同照庵の客殿を寄附した。次いで輝元は、筑前黒田氏の希望により、本堂などを博多崇福寺(現福岡市)建立の材として贈った。後には三重塔のみが残ったが、ここに小宇を建て、わずかに乗福寺の名を残した。


寛文9年(1669)近火のため寺塔ともに類焼。よって塔頭正寿院を乗福寺とした。元禄4年(1691)本堂を再建。これが現在の本堂である。

 

この梵鐘は江戸時代のものである。

乗福寺に伝わる文書から、大内義隆の外交文書を書いた禅僧、梅屋宗香(ばいおくそうこう)が同寺にいたことが明らかになっている。近年の発掘調査で、朝鮮半島に由来を持つ龍や鳳凰の文様の瓦が大量に出土している。この瓦には、朝鮮の技術者が直接作成した可能性が高いものと、山口の技術者が朝鮮の意匠を取り入れて作成した可能性の高いものの二種がある。

 

山口十境詩「南明秋興」

 

境内に上田鳳陽の墓がある。長州藩の下級藩士宮崎猪兵衞在政の三男として生まれ、三歳の時、上田平右衛門清房の養子となり、清房亡き後、跡を継ぐ。寛政12年(1800)11月、32歳で、萩明倫館に入学、文化6年(1809)規定を越え、儒学、国学に励み、山口に帰郷し、学問所山口講堂(現山口大学)を開設した。

 

幕末には坂本竜馬が長州藩士と会合し、薩長連合の密議を重ねたことでも有名である。