かっては、畑の中に静かに佇んでいた寺だったのだが、近年のJR北側の宅地開発により、寺の前の往時の面影は消えた。
山門から、境内に入ると、違う世界が存在する。
山門
山号は応龍山.。厳島神社の神主で、桜尾城主であった藤原教親の開基により、讃岐国出身の曹洞宗の僧、金岡用兼が長享元年(1487)に創建したもので、金岡の師である為宗仲心を開山とする。その後は、大内氏、陶氏、毛利氏の崇敬をうけた。
陶晴賢は厳島合戦で、毛利元就に敗れ、自害に追い込まれているが、元就によってこの寺に葬られている。大内義隆に敗れ自害した藤原教親の甥、桜尾城主友田興藤(藤原興藤)、毛利時代の桜尾城主、桂元澄、毛利両川とともに、毛利家を支えた元就の四男毛利元清(穂井田元清)の墓もある。
本堂
赤富士の句碑
廿日市出身の俳人、杉山赤富士の句碑。
本堂横にある庭園に厳島神社が勧請されている。
金岡用兼が座禅をしている時に、厳島明神が神官に身を代えて、現れ、大戒を受けたと伝えられている。
金岡水
金岡用兼が厳島明神のお告げで、岩をうがって得たと伝えられる名水。
本堂裏手に廻る。裏庭の景色もいい。
この井戸の水も名水だ。
本堂裏に桂元澄夫妻と毛利元清夫妻の墓がある。
廿日市町指定史跡碑板
碑文は桂太郎により、書かれている。
桂元澄夫妻の墓
友田興藤の墓と陶晴賢の墓は、本堂前から墓地の方に向かう場所にある。
友田興藤の墓