和気清麻呂公顕彰碑と和気政庁跡~岡山県和気郡和気町藤野 | 大根役者

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和気神社から和気駅方面に戻ると、右側に和気清麻呂公家顕彰碑、和気政庁跡と書かれた案内板が見える。 案内板の指示通り、左側に曲がると倉光三郎成澄之塚と書かれた石碑がある。このあたりだったのか。岡山に関わりのある倉光三郎の話は知っていた。平家物語にも登場する源氏方の武将だ。

倉光三郎は木曽義仲の家臣だった。平家討伐に備前にやってきたのだが、その時の道案内人が備中出身の 妹尾兼康だった。妹尾兼康は平家方の武将だった。倶利伽羅峠の戦いで捕虜となり、源氏に従順な姿勢を見せていたが、腹の内では平家のために役立ちたいと思っていた。

備前に着いた時、倉光三郎を殺害し、備前、備中の平家方の武将を招集し、笹が瀬川で源氏と対峙したが破れてしまった。木曽義仲は「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千の兵ともいふべけれ」と武勇を称えたとされている。





しばらく進むと右手方向に数本の木に囲まれた石碑が見えてくる。







山陽本線の近くに『参道寄附 岡山縣自動車運輸商業組合』と刻まれた石柱がある。






石碑の側に建てられた由緒には

「この碑は記紀による日本建国2600年記念事業として昭和15年(1940)岡山県内教育関係者の寄付および奉仕によって建てられました。
ここは地名を「大政」といい大政所に因むもの、すなわち古代の郡衛・郡家の跡と推定されて、当時清麻呂公顕彰の風潮下で建碑地となりました。
この地での郡衛・郡家の存在を証する物は未確認ですが、近傍の地名を見ますと条里地割りに沿って古代山陽官道の駅の跡と思われる地名である「尺所」(和気町尺所」がある上に「飼葉」(和気町藤野・吉田)の地名もあります。
また、郡田を示す「香炉田」(和気町日室)、郡治に因む「治部田」(和気町藤野・吉田)、
領巾田(采女化粧田)を示す「古布羅田」(和気町藤野)がつづき、郡総社であった宗堂の地名「宗堂」(和気町泉)もあります。
このように古代郡政関係の地名が周囲に多く並びますので、この辺りに郡衛・郡家があったとみて差し支えないでしょう。
なお、この碑から南西約1キロメートルのところに「天永3年(1112年)、大神主・和気朝臣欽行」の棟札を有する由加神社があり、また北東約1キロメートルには和気広虫・清麻呂と和気氏先祖・応神天皇を祀っている和気神社があります。」

と書かれている。

この碑の近くに政庁跡とされている遺跡がある。







この地からは奈良~平安時代の土器類、瓦類が出土しており、郡衙、郡家、政庁がこのあたりにあったことは間違いないのだろう。

岡山は吉備氏の勢力下にあった。歴史上、和気氏が登場するのは広虫、清麻呂姉弟からである。和気とは、「別(わけ)」のことだと推測される。元々天皇・皇族の称号とされている名で、後に名となり、和気と名乗った一族が存在したのだと思われる。

地方官には国造・県主とは無関係に別が存在したと考えられてる。吉備氏の勢力下にあった岡山に朝廷直轄の国司が置かれたにだと考えることで、道教と対峙する和気清麻呂、広虫の構図が理解できるのだ。