鵜飼のシーズンである。三次の鵜飼は戦国時代、毛利に敗れた尼子が生活のために始めたとされている。三次藩藩主浅野長治が現在のような形に整え、伝承されている。今年も巴橋付近に多くの観光客が訪れている。巴橋はその名の通り、西城川、馬洗川、江の川の合流した位置に架けられた、三次のシンボルともいえる赤い橋だ。巴橋のたもとに松原稲荷通りがある。
僕は、ゴールデン街に入り浸っていたせいか路地裏の店が大好きだ。銀座でも並木通りよりも裏通りやビルの隙間にひっそりと存在する店に通った。広島に帰ってからは、今のラウンドワンにあった国際ホテル裏のなめくじ横丁っていったっけ、あのあたりや、薬研堀の裏通りに通っていた。
松原稲荷通りはそんな僕のコンセプトにマッチする街だった。御多分にもれず、閉店した店も多く、時代の片隅にひっそりたたずむしか生きる術のない悲哀を感じる。
木造三階建ての家を発見した。
この街もゴールデン街同様、古い船に乗り込む新しい水夫によって違う海路を通り、新しい時代が切り開かれるのかもしれない。
松原稲荷の寄贈者には三次出身の辻村ジュサブローの名も見える。
ここはかって、花街だった。幼児期に売られてきた娘もいた。商売の神は稲荷だが、彼女たちが信仰した芸事の神は厳島神社だった。借金を返済し年季が明け、広島の厳島神社にお参りすることが彼女たちの夢だった。厳島神社の祭神の市杵嶋姫命は女神であり、弁財天につながるものとされている。つらい仕事から脱出を試みて目の前の馬洗川を泳いで渡ろうとしておぼれ死ぬものもいた。
逃げてもすぐに連れ戻された。そんな彼女たちの信仰の対象として、いつしか、馬洗川の川中の岩に祠が祀られ、厳島神社が勧請された。遊郭の窓から彼女たちはこの神社を拝んだ。この花街から出ることもなく遊女たちは一生を終えた。
今では祠はなく、厳島神社の名が刻まれた石塔が立っている。哀しみの歴史も歴史である。最近、歴史の線上から負の歴史を抹消しようとする動きがある。歴史の陰に埋もれて行く事実を僕は旅しようと思っている。