文覚堂~広島県庄原市高門町 | 大根役者

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日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

遠藤盛遠は摂津の国の武士集団・渡辺党に属し、鳥羽上皇の第二皇女統子、上西門院に仕える北面の武士だった。盛遠は同僚の渡辺亘の妻、袈裟御前に一目惚れし、何度か忍び逢いを重ねる内にすっかり心を奪われ、「亘と別れて、俺と一緒になれ」と身勝手な事を言い出した。袈裟はとまどうばかりで、かといって、盛遠を説得する自信はなく、自らにも非のあるところなので、夫に相談するわけにもいかず、悩んだあげく袈裟は「今夜、寝静まった頃に寝所に押し入って、夫を殺して下され」と申し入れた。言われた通り、盛遠が亘の館を訪ね、袈裟に教えられた寝所に入り、盛り上がった蒲団の胸あたりに大刀を突き刺した。しかし、月明かりが照らすその死体は袈裟御前のものだった。

盛遠は翌日、亘にすべてを話し、自分の首を討ってくれと申し入れたが、亘はすべてを神仏にゆだねようと自ら出家すると話した。盛遠はその時、初めて、神仏を意識し、髻を切って出家した。

壮絶を極める荒行で何度も死にかけて、その都度、不動明王に救われ、自身が世に存在する意義を探しつづけた盛遠は京に帰り、飛ぶ鳥を落とすほどの刃の修験者と噂された。神護寺の復興を悲願とした盛遠は政治の世界にも接触するようになった。伊豆の頼朝に決起を促した文覚上人が盛遠なのである。

上記は源平盛衰記、平家物語の記述である。史実は渡辺党の棟梁源頼政の知行国、伊豆に法皇に神護寺復興を強訴した罪で流罪された際に頼朝に会い、伊豆と各地の源氏、京を行き来し、頼朝を支えた源氏方の一人だったのだ。頼朝死後はあまざまな政争に巻き込まれ、最後は後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬配流の後、大宰府で死去するのだ。

平家物語では隠岐の国に流罪されたことになっており、各地に文覚伝承が誕生することになる。

広島県庄原市高門町の山奥に文覚堂というお堂がある。隠岐から教へ戻る途中、この地にとどまり、地域の人々に親しまれていたが、この地で客死する。「私を信じれば願いが叶う」と遺言され、祀られたところ、下半身の難事にご利益があったので、子宝、夜尿症、婦人病、精力減退に霊験あらたかとして、信仰されている。各地にある陽根信仰と真言宗の修行僧文覚が結びついた経緯は不明だが、神通力を持った文覚への信仰なんだろう。ただ、この地にとどまったのは文覚ではないわけだし、文覚を騙った人物か、文覚信仰を広める集団があったのかは不明だ。

文覚堂を訪ねてみた。

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トイレに手水(確かこういう名称だったと思う)があるのがなつかしい。
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お堂の前の賽銭箱にまずびっくりする。

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地域の人には文覚さんと親しまれているのだが、子供連れで来るのには躊躇うる。だって、女陰、男根の造作物が奉納され、絵馬はなく、自分のはいたパンツに祈願内容を書いて奉納するんだもの。絵馬堂が匂ってきそうだった。

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庄原の山奥にこんな場所があることは意外と知られていない。高速道路庄原インターを出たところに案内標識はあるが、その方向に行っても、山道に入るところに標識はない。カーナビにも載っていないので、近くを通る人に道を聞いた。観光バスも来ることもあるそうだ。

広島には源三位頼政の妻菖蒲御前の伝悦なども伝承されており、安芸、備後と京の密接な関わりを改めて意識するのだ。