25年前の今日、午前5時46分は東灘区の実家で布団の中でした。
雷が目の前に落ちたかのような轟音がして、激しい揺れに布団の中で耐えました。
頭側と足側にあったタンスが布団の上に倒れ、それがちょうど屋根のように三角に重なる形になった為に、
その間から抜け出せました。
隣の部屋にいた母も滑って飛び落ちたテレビが額に当たった程度の軽い傷で済みました。
妹もケガ無く無事。
実家は4階建ての鉄筋コンクリート造のコーポ
土台、一階にひびが入った程度で済みました。
周辺の木造一戸建ては、殆どの家が一階が押しつぶされました。
お隣の一軒家の方が屋根に上り、私の部屋(2階)に入って脱出。
そこまでは覚えていますが、その後は自分のことや家族のこと、周りのことに必死で
具体的にどんな行動とったか、思い出せず。
サイレンが延々と鳴り響いていました。
『ガスタンクが爆発する恐れがあるから避難するように…』とか。
隣の中学校に避難していました。
ライフラインは勿論不通、余震など考えると家で寝るのは不安だったので、
2週間ほどそこで寝泊まりしました。
避難生活中は、住民同士協力する時もあれば、言い争いに時もあり。
前の年の9月に両親が別れ、別れた父が震災の翌日か翌々日に戻ってきて。
2,3日居てくれましたが、複雑な心境。
別れた理由が理由だけに当時は憎しみしか持てない存在だった父が、私たちを心配して
寄り添ってくれている…。
『ありがとう』と言えるが、本心で言っていたのか…。
その時は理解できなかったが、家族の絆と命があることの大切さ。
父親として、かつて一緒だった家族の事を想う気持ちは、間違いない・不変。
許せないが、親として子を想う気持ちは受け止められる。
全てのことがあっての、今の自分の存在。
今の自分を受け入れて、前向きに進んでいくのにも、命があること・健康であることが大切。
その健康をナビゲートする仕事についている自分は、充分前向きに生きていく価値があるとおもいます。
………
父は、その震災後に姿を見せて以降は会っていませんでした。ある時期からは音信不通になりました。
父の存在が気にならなくなり、気持ちの中での引っ掛かりも無くなって、十数年経ったある日に、
亡くなったという連絡があるところから文書で届きました。
その亡くなった(のが分かった)日が、1月16日だったのです…。
今日はその文書を改めて見て、25年前の事、両親の事を想い考えました。