鈴木さん ありがとう
1991年春の話です。
朝食を食べながら漫然と観ていたテレビのNHK画面に猛烈なシーンが映し出されました。
80歳を超えた高齢者が体操服姿でマット上に伸ばした足を画面いっぱいに開いて前屈姿勢を始めたのです。
信じられなかったのは体をほとんど真っ二つに折りたたんで頭は床に深々と擦り付け、しかも手足や背中の筋はしっかりと反り返っているではありませんか。
この番組は時期が迫っていた東京都知事選挙の報道で画面の人はそれまで3期の任期を務めあげて今回も4月の選挙に立候補されている鈴木俊一氏でした。
結果は鈴木さんが当選されさらに1995年4月までの任期に就くことになったのですが、その選挙期間中は「80歳を過ぎた人間になにができる、都知事がつとまるものか。」との心無い批判にさらされてご本人は心中穏やかではなかったと想像します。
あのパフォーマンスはその無理解な世の中に向けて発されたご自身のまだまだこんなにやれるぞというパワーの証明だったのですね。
数えきれないほど残されている当時の高い実績が証明してくれています。
そしてテレビ画面で鈴木さんがやられていた体操こそ真向法というのだとはじめて知りました。
81才だった鈴木さんが示された体力の証明に目を剥いたわたしは早速渋谷の本部に駆け込み真向法体操のご指導を受けることにしました。
あのお年寄りに出来ることが若い自分に出来ないはずはないとたかをくくって臨んだのですが結果はひどいものでした。
その上、時はまだバブルの余燼があり、ご指導の順番が来るまで待つ時間も少なくありません。
体操の一番を挑んでも三番をやっても足が思う通りに開けず、腰の曲がりもあのテレビ番組のようにはいかないのです。
足の裏を併せて股を開こうとすると痛くて痛くて、もう何度も止めようかと思いました。
それでも先生の「やっている間にはそのうちに出来るようになりますよ。」というお言葉に励まされて続けているうちに少しずつですが前屈が深くなっているように思えてきました。
やるたびに膝が近づいてくるのです。そのような進歩が自覚されるようになってくると今度は身体全体が面白みを感じてきて自宅練習に熱意を込めるようになりました。
月に1度か多くて2度のご指導をいただきながら数年が経過したある日の本部指導道場でした。
いつものように進行して三番の開脚前屈で頭を床に近づけたところ初めて前髪の数本がマットに触れたのです。
かねて目標にしていたのでうれしくなって、さながら子供のごとく息を弾ませてご指導の先生に伝えました。
「先生、初めて髪の毛が床に付きました。」
「いや、それではだめです。背中が丸くなっています。今後は背筋を意識してください。」
こうして新しい課題が示されました。
そのあとも上達するにしたがって足首を意識して立てなさいとか、尻を引いて背筋を伸ばすようにとか身体の健康につながる教えを受けました。
2018年、72歳の秋にわたしは小脳に出来た悪性腫瘍を除去するために開頭手術を受けて8ヶ月の間、杏林大学病院で加療入院を余儀なくさせられました。
狭い病院のベッドでしたが回復の過程では生きがいとまでなった真向法体操が忘れられず、あちこちつっかえながらも手足を伸ばして実践を続けました。
以来6年半、一度は死ぬことまで覚悟したのですが、今では60坪の畑の耕作ができるまでに回復できましたこと、恐れ多いことながら鈴木元都知事同様、真向法体操で常々基礎体力を養っていたのが幸を奏したものと感謝の日々を生きています。
2025.4月初旬 徳永泰朗