山本富士子、岸恵子ら豪華スタッフ  ⬇️



  

       あるテレビ界の内幕をえぐり、市川昆監督が【黒い十人の女】で疎外された人間像を追求しようと試みた。

ストーリーあらすじ


キャスト

【出演】:岸恵子、山本富士子、宮城まり子、中村玉緒、岸田今日子、宇野良子、紺野ユカ、倉田マユミ、森山加代子、船越英二

制作年

1961年公開作品






    東京のテレビ局「VTV」のプロデューサー松吉は、美しい妻・双葉がいながら、テレビ業界に関わる9人の女と浮気していた。やがて妻・双葉と9人の愛人たちはお互いの存在を知るようになり、奇妙な友情が芽生えてゆく。

   あるとき、愛人のひとりで舞台女優の市子が、双葉と愛人たちを集め、松吉を殺す計画を話し合う。愛人のひとり・三輪子は秘密を抱えきれず、計画の存在を松吉に打ち明ける。松吉に問い詰められた双葉はあっさり計画を認める。




   それを聞いた松吉は、海岸で10人の女に囲まれ、無理やり薬を飲まされて海に捨てられる、という場面を想像する。





   松吉は双葉に、愛人関係を清算する約束と引き換えに、空包を詰めたピストルを使って、死んだように見せかける「狂言殺人」を提案するーその後、場面は二転三転する。



   以下、青臭い映画部員の自己陶酔評論




    プロデユサー「風」(船越英二)―風のようにふわふわした男はその時々の状況で女と関係を持つ。

 「秒」に追われ、時間の組識にがんじがらめにされて、仕事に追われているが、実際はなにもしていないしかばね、そのくせ「秒」に自分を縛りつけていなければ安心しない男。

 その妻(山本富士子)はレストラン「カチューシャ」を経営することによって、人間性の復活を夢見ている。




 男をめぐる女達は、自分の利害の為に男を独占しようとする。人間性を失なつた彼等には愛することも罪の意識をも感じない。

 そこにはただ物像化してしまつた人間同志のデイスコミュニケィションー「同じ言葉を使つているくせに、何一つお互に通じあわない」―人間の断絶、人と人の間に横たわる戦慄すべき深渕がのぞいている。





 しかし、こうしたモチーフを持ちながら、白々しい映画となり、観る者にガーンとする衝撃を与えないのはどうしてであろう。 

   最大の欠点は、観念の骨組だけがあらわに出て、十分に濾過されずに映像化された恨み、その端緒な場面は「現代社会機構の中では、人間はみな物となり……。」という観念そのもののセリフでこの困難なテーマを料理しようとしたところにある。

 また撮後のシークエンス、新劇女優(岸恵子)が街で燃えているトラック(不条理の象徴?)を車の中からうつろな視線(人間みな《異邦人》《アウトサイダー》?)を投げる観念の肉づけのない自々しいシークエンスで見事に失敗している。





 一貫して市川の製作態度に見られる、人間の一皮ひんむいたなまぐささを抹殺して一切を《物》にすることによつて、対象のもつ意味を作り変え、見ている者に新しい意識を生み出す、作者の感情を移入せずに、カメラの即物主義による客観描写で、対象に今日的な意義を模索しようとするらしいが― 。




 たしかに新しい、既成の映画を変革する映画感覚は、小津や木下のように現実として激しくゆさぶられた庶民の世界を浄化し、美化し、詩情や抒情感でもつて映像化することではなくて、なまるい情緒的なものを介在させないで、  既成の形(観念、習俗)を離れて物を見、物を作るマティアリステイツクな感覚であるが――市川は人間を物体に還元することよりも、物体の魔力のうちに自己を見失なつているフェティシズムに傾斜してしまつている。

 こうしたフェティシズムを物体の運働と人間の行動によつて徹底的に破壊して、それを通しで自然や社会のメカニズムに触れる。

 人間を見つめることで状況を、状況を見つめることによって人間を発見しなければならない。

 即ち彼(プロデユーサー)の内部状況にくいこんで、沈殿している無意識の、うす汚い、どす黒い欲望本能「自己」の内なる「他者」、と外部状況(テレビ会社=社会のメカニズム)とのゆがみやひずみとの、のっびきならない拮抗葛藤、とその有機的な統一なしに、ただ彼を物として現象面的に描くことによって「マス文化はこういう奇型児
を生み出すのですよ」というわかりきった、ステロタイプーーこのステロ化した観念や感性を不断に破壊する主体的な格闘を通してフイルムでもって、対象に肉薄するときこそ感動が生じるのであるがーーの説明になってしまった。

 出てくる女達が美人にもかかわらず、ことごとく不感症的徴候が感じられるだけなのだ。




 始めから日常性のヴエールを剥がれた異常人物を描くのではなくて、のっべりした日常性の皮膜が一瞬裂けて、その亀裂にきわめてショッキングな非日常のイメージが顔をのぞかせる、それをすかさずとらえていくという作者の主体的なクリテイックが市川に、全く欠けているのだ。

 だから市川は高度の技法エレガンスの描写、軽妙なタッチで一段高いところから、高踏的に歪んだ現代に後指を示すだけで終ってしまった。こうしたモダニズム、ダンディズムからはなんの感動も生じない。

 僕の喜んだのは、ゴールディンウィークを狙った、このプリントが間に合わなくて、「初日の3日に封切れなかった」というエピソードが制作に追われているマスプロの映画に対する痛烈な皮肉となったことだけだ。

 (京大映画部部員 岩田 誠)


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   TVドラマの配役は⬇️





   テレビ局のプロデューサー風松吉(小林薫)には、十人の女がいた。女優の石ノ下市子(鈴木京香)。出入りのコーヒー屋・三雲三輪子(小泉今日子)。アナウンサーの四村塩(深田恭子)。演出助手の後藤五夜子(小島聖)。総務部の虫子(松尾れい子)。受付の七重(冨樫真)。衣装部の八代(唯野未歩子)。食堂のウエイトレス・櫛子(一戸奈未)。広報課の十糸子(木村多江)。

 本妻の双葉(浅野ゆう子)は、もちろんこれを承知しており、いまではこれらの女たちと友達のような関係になっていた。



 だが、女たちは風のことを仕方がないと思いつつも苛立ちを覚えはじめていた。愛する者が自分のものにならず、誰にも優しいことに。

 やがて、この秘めた感情は、風を亡きものにしようという殺意へと変わっていくのだった。





   【テレビドラマの方が分かりやすい】