マリリン・モンローが花隈に

 


 【神戸新聞から引用】


   モンローは1954(昭和29)年2月、2番目の夫で米大リーガーのスター選手、ジョー・ディマジオとの新婚旅行で来日。東京、大阪など各地で熱狂的な歓迎を受けた。


 当時の本紙記事によると、2人は神戸も訪れた。旧居留地のオリエンタルホテルに2日間滞在し、2月20日夕に花隈の料亭「いさ美」(現存せず)へ。


「(ホテルの)ロビーに待ち構えていた外人客、米兵、ホテル従業員など40、50人がたちまち人だかり」と熱狂ぶりを伝える記事とともに、いさ美で天ぷらを頬張る大女優の写真が掲載された。 


神戸・花隈の料亭「いさ美」で会食するマリリン・モンロー(右端)。左端が福島史女さん、2人目が阪神・野田誠三オーナー(1954年2月20日)=福島順子さん提供=















   料亭「いさ美」があった花隈の厳島神社の周辺




  以下、引用させて頂きました。


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内田雅也が行く 猛虎の地(17)料亭「いさ美」 モンローの金の産毛が揺れた幸福な夜

 箸を手にしたマリリン・モンローが笑顔を浮かべている。中央(左から2人目)には阪神オーナー(電鉄本社社長)・野田誠三がいる。

 1954(昭和29)年2月20日、土曜の夕方、神戸・花隈の料亭「いさ美」での一コマ。左端に写る芸妓(げいこ)、福島史女(しめ)=2011年、93歳で他界=のめい、福島順子が所有する貴重な写真だ。

 同年1月14日に結婚した元ヤンキースのスター選手、ジョー・ディマジオとの新婚旅行で2月1日に来日していた。過去2度訪日経験のあるディマジオは「日本の美しい風景を妻に」との思いがあった。また、セ・リーグ招待の「共同コーチ」で3Aサンフランシスコ・シールズ監督、フランク・オドールらと各地を巡回。この日、明石での巨人でセ6球団の指導を終え、セ・リーグ主催で夫妻を招いての感謝の夕食会となった。すき焼きや天ぷらを楽しんだ。

 順子によると、史女は生前「モンローさんはかわいい方でした」と話していた。「初々しくて笑顔がとてもかわいい。腕の金色の産毛がゆらゆら揺れていました」。寒い日だったが、モンローはノースリーブで腕を出しショールを巻いていた。金髪が印象的だが、産毛も記憶に残っていた。

 史女は尾上松緑の内弟子から「歌志め」の名でお座敷に出た。花隈新興会が71年に発行した町誌『花隈』に「いさ美」は<花柳界の稽古場>とある。史女が日本舞踊を指導していた。

 その夜は『春雨』を舞った。「わたしゃ鶯(ウグイス) 主は梅(中略)鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな」と歌詞にある。梅に寄り添うウグイスのような夫婦を表す。新婚の2人に贈る踊りだったのだろう。

 会合はセ・リーグ主催で連盟会長・鈴木龍二、前会長で読売新聞副社長・安田庄司ら6球団首脳がいたが、店の者は「野田さんが招待」と思っていたようだ。野田行きつけの店だったのだろう。

 阪神への指導は15、16日の2日間だった。15日は雪が舞う悪天候のため甲子園阪神パーク演芸場で映画上映と質疑応答となった。徳網茂が「私は小柄(1メートル70)で腕力がないのでプッシュ・バッティングをとった方がよくないか」と問うとヤンキースのフィル・リズートを例に「彼も小柄(1メートル67)だが基本に忠実に従っている」とバットを手に実演してみせた。佐山和夫『ディマジオとモンロー 運命を決めた日本での二十四日間』(河出書房新社)にある。

 監督・松木謙治郎が外角低めの打法を問うと「私自身打てないので教えられない」と謙虚に話した。「1、2球ファウルすれば投手は根負けして投げて来ない」という応答に松木は「私自身、指導に思いあがりがあったと反省させられた」。

 16日は球場で1軍、ジャガーズと呼ばれた2軍選手も集まり紅白戦を行った。渡辺博之が左翼へ本塁打を放った。ディマジオは藤村富美男、金田正泰の打撃を「特に優れている」と評している。

 ただ、夫婦の間には日本に滞在中、亀裂が生じていた。2日の帝国ホテルでの会見ではモンローばかりに質問が向けられ、嫌気がさしたディマジオは退室していった。

 当時ディマジオ39歳、モンロー27歳。現役引退から3年たった元スター選手と20世紀最高のセックスシンボルと呼ばれた女優。日本での注目度も段違いだった。「いさ美」でも「ディマジオさんより、人気は断然モンローさんでした」と史女が話していたそうだ。

 「野球場には来るな」と言われていたモンローが14日、広島を指導中の広島県営球場に現れた。ディマジオは相当に怒った。15日早朝、モンローが宿泊先の宮島「一茶苑」の庭で忍び泣く姿が目撃されている。

 離日は24日。帰米後、ビバリーヒルズの新居では1、 2階に別れて暮らす「家庭内別居」。ニューヨークで映画『七年目の浮気』の撮影に立ち会ったディマジオは、地下鉄通風口からの風に巻き上がるスカートを手で押さえる、あの有名なシーンに怒りを覚えた。10月、モンローは精神的虐待を理由に離婚訴訟を起こした。9カ月の結婚生活に終止符が打たれた。

 ただ、ディマジオは離婚後も愛し続けた。モンローが永眠した後も週3回、墓に赤いバラ「アメリカン・ビューティー」を送り続けた。ならば、日本での24日間は大切な日々であり、 「いさ美」の夕べは梅とウグイスの幸福な時間だったと言えるだろう。=敬称略=(編集委員)


   #   内田雅也さん、〝歴史的記事〟ありがとうございました。




モダン寺や城跡、花街の名残りも






 神戸にはまだ穴場的な見所も散在します。元町周辺に行ったら本願寺神戸別院、愛称「モダン寺」=写真=に寄ってみたらいかがでしょうか。





 尖塔や壁面彫刻などインド様式を取り入れた斬新な建築で知られ、異国情緒豊かな5つの尖塔とステンドグラスが美しく、本堂の前には親鸞聖人のブロンズ像が建立されています。ホールや会議室など多目的施設も備えており、仏前結婚式も行われます。






   そこから歩いてすぐの所に、花隈城跡、今は花隈公園があり、石垣風の作りになっています。








 この城は、織田信長が中国地方への勢力伸張拠点の一つとして荒木村重に造らせますが、築城後たった13年でその信長によって攻められ、落城します。村重の謀反があったと言われています。飾るものもなく、寂寥としている城跡が、マニアックな人には向いているようです。



花街の面影の残る  


 花隈城の名前は花街として生き残ります。坂道と人目を避けるような路地の多いまち、南京町で成功した華僑たちが妾宅をおき、やがて小料理屋ができ、いつしか花街となったとも言われています。接待盛んなバブル期には料亭に芸子・舞妓さんの姿も見られました。





 今も何軒かの料亭があり、面影を残しています。北野坂、トアロードに続く第三の坂「花隈坂」として整備し、「神戸三坂」というコンセプトを作ろうとする動きも出ています。

           

                         (岩田 誠)


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